「アイ、ロボット」見ました。
以下、ネタバレ的な部分もあるので、未見の方は読むべからず。
で、見たんですよ。
モチロン、ものすごい否定的に、むしろ敵意を持って。
俺の心の師、アイザック・アシモフ先生の小説を、よりによってSFアクションにしてるんですからね。
「アンドリュー」はね、かなりカンペキに原作どおりでした。俺なんざ、今でも見るたびに感動してます。いや、そりゃあ、一般受けはしないだろうし、案の定、興行的にもさんざんだったみたいですが。
でもね、それがいいんです。俺はその忠実さを評価したいです。
今、受けるものを作るのも、それでメシ喰ってるんだから、大事でしょう。だけど、もし好きな話であるのなら、好きな作家であるのなら、新作でもリメイクでも、原作、もしくは先行作品に対して、それなりの敬意を払うべきだと思うんですよ。
勘違いして欲しくないのは、アイザック・アシモフに対して何の思い入れもない人とか、そもそも原作を読んだことのない人なら、非常に楽しめると思うんですよ。よく出来たSFアクションだと思います。
でもね、この映画は「I ROBOT」を原作だと言ってしまった時点で、俺の中で最低評価なんです。
「我はロボット」というのは、「ロボット三原則」という絶対的な縛りの中で、不可能であるはずの事件が、こういう理由で可能であったのだと証明する、超一級の本格ミステリでなくてはいけないんですよ。
つーか、そもそも「我はロボット」というのは短編集の題名であり、作品名ではないんですが、それはさておき。
スーザン・キャルビンはあんな若い奇麗なお姉ちゃんではいけないし、ロボットは何があっても人間を傷つけてはいけないんです。安易にロボットが反乱なんかするのは、実は、アイザック・アシモフが一番嫌う類(たぐい)の話なんですよ。
なんでもありの魔法じゃ面白くないから、作者はその魔法に、回数とか出来ないことなんかの制限をかけるんです。ゼッタイ死なない主人公じゃ面白くないから、主人公は傷つくんです。万能じゃ、面白くないんですよ。それはきっと、俺たちが万能じゃないから。
そんな作者が作る「制限」のなかでも、アシモフの作った(正確にはアシモフじゃないんだけど)ロボット三原則は秀逸なんです。三原則が簡単に破られるなんて、野球漫画で急にルールが変わったり、飛車が突然斜めに効くようになるみたいな、そんな大反則なんです。
原作だと銘打っておきながら、作者が一番やりたくない話に仕上げる。これは、作者に対する冒涜ですよ。俺なら、ゼッタイ化けて出る。
こうなってしまう理由はわかるけど、アメリカ人てのは、自分の同胞を信じてないんですかね? きちんと作れば、安っぽいアクションにする必要なんて、カケラもなかったはずなのに、受け手の感性を信じられないから、いかにもな話になっちゃうんでしょう。
あー、いっぱい文句言ったらすっきりした。
明日、弟達と呑んだくれて憂さを晴らそう。
娯楽である映画でストレスためてるって、なんか間違ってる気もするけど。