笑ってる?

創作サイト【神々】の日記

責任の所在

いじめの話。

俺はガキ側じゃなくて、大人側の話をしようと思います。

無関心=悪かどうかは、きっと意見が分かれるところでしょうね。
教育者と言う立場の前に人間であることを、ものすごく親切な人権によって保障されてる方々にとっては、労働基準法に定められた時間内に、『出来るだけ問題を起こさない方向で』話を進めたいんでしょう。
でも、コレが=悪とは、なかなか言いがたい。
だって、そいつらだって生きるためには仕事しなくちゃならないでしょ。きっと子供にとっては大事な期間だとしても、そいつにとってはあと何十年教員をやる中での、ほんの数年なワケですよ。
だったら、波風なく、つつがなく勤め上げて、いただくものをいただきたい。
そう考えるのが悪なら、仕事に全身全霊をかけてない人間は、すべて悪になってしまいます。いや、『聖職者たるもの云々』てのはちと、かわいそう。
だって他の聖職者は、それに見合うだけの高給取りですからね。
 
世間や親が求めるものが、複雑化し、多様化してくるのに、たとえば大学出て数年の、20代前半の人間に、誰もが納得するような結論や行動は、取れないとは言いませんが、かなりハードルが高いことは事実。
すると、次善の策として『現状維持』という結論に達するでしょう。
教育機関において、この傾向が強まってるのは、残念ながら事実です。
そして、この状態を招いた一端には、親自身の責任回避が多分に関係してくると思うんですよ。いや、親じゃない俺が、親であるヒトに言うのはおこがましいかもしれませんが。
 
なんでそう言い切るかと言うと、実は医療業界でも、ほぼそれに準じた傾向が、顕著になってきているからです。親と子ってコトだけじゃなく、全般的に。
 
情報化社会の恩恵によって、自分の疾患に対しての知識を得る。
その知識をモトに、治療者に対して、納得行くまで説明を求める。
医療ミスや誤診にたいして徹底的に追求し、泣き寝入りせず戦ってゆく。
 
すべて正しく、そうあるべきことです。
俺自身も、医療の一端に携わる人間として、こうなるべきだと思ってますし、治療家としてじゃなく、俺自身が患者になる可能性を考えれば、そうなってもらわなくては困ると思います。
ただし、この合理的なアメリカナイズされた手法は、非常に危険な副作用を持っていまして。この国には、『権利や利権は主張しても、責任を問われることを嫌う』と言う、クズ生物が多いんです。
責任を追及されたくないから、明らかに必要がないと思われるレントゲンやCT、MRIも撮影し、そのうえで、『悪化さえしなければいい』と言うスタンスで経営される医療機関が、たぶん、皆さんが思ってる以上に、実際に存在します。
んで、この事態を招いた原因の一端は、残念ながら患者さん自身にもある。
中途半端な知識は、プロじゃないんだから仕方ない。
でも、すくなくとも自分なり子供なりの大切な身体のことなら、労を厭わず学ぼうとする姿勢は必要でしょう。そのうえで、教えてくれないところなら切ればいいし、信頼できると納得すれば、後はプロに任せればいい。
これ、間違ってないでしょ?
なのに、努力や勉強はカケラもせず、TVでかじった知識を背景に、訴訟(正当な、ではない)って刃物をちらつかせて『特別扱い』を求められたら、相当まともな治療家でも、いい気分で仕事は出来ません。
俺なら切れて『ほかにいけ』言いますね、間違いなく。
 
そしてこの図式は、教育機関にも同じように存在するでしょう。
教育とかの前に、大切なお王子様、王女様を預かってるから、とにかく問題を起こさないように。平等(最近の教育システムが平等とは、俺にはどうしても思えませんが)にあつかい、親御様のご機嫌を損ねないように。
大事なことは、
『あとで訴訟になっても、法的に弁明できるように』
責任の所在と、法的な証明を得たら、あとは『現状維持』
その結果、すこしずつ異常へとシフトしてゆく状況や、それを異常と思えない己の精神状態に気付けない。現状維持ってことは、昨日と大差なければいい。これじゃ、昨日と今日の小さな差が一年後に大差となることに、気付けるわけがない。
そんな未熟な教育者を責めることは簡単です。
聖職者たるもの、みたいな論法でもいいし、自分の大事な子供を、みたいな論法でもいい。相手は立場的に弱いんだから、己の家庭での教育、親の人間としての欠陥から来る子供への影響、全部棚に挙げてやればいいんですから。
 
俺に言わせりゃ、死んだガキ、その親、学校、どれにも責任はあると思うし、全員に、それなりの言い分があると思います。つーか、どこから切り取るかで、そんなもの、どうにでも取れますよ。
イチバン悪いと言われた人物を主人公に、泣ける教育物語をでっち上げる自信、俺、あるしね。
 
その上で、死んだ子供以外の生き残った、特に大人には、責任は確かにある。だけど問題なのは、誰がどうとかの責任の所在じゃなくて、責任を負うべき人間の自覚、なんだと思います。
みんなが責めるわかりやすい犯人じゃなくて、「俺の行動や言葉の中にも、責任はあったんじゃないか」と気付けない、鈍感な、むしろ愚鈍というべき生き物たち。
 
責任を背負うことに耐えられないなら。
そのひとには、それをする資格がないんです。そう言うヒトは、医療に携わってはいけないし、教育に携わるなんてもってのほか。親になる? なに、寝言ほざいてるんだ?
 
治す気がないなら、看板を下ろせ。
教える気がないなら、その職に就くな。
育てられないなら、作るな。
 
でも。
 
それは正しいけれど、いまのところ、現状を打開する役には立たない
 
んじゃ、逆から攻めてみますか。
 
患者は、自分の病気、怪我のことをもっと勉強しろ。平日昼間のTVでじゃない。これだけ情報が得やすい時代なんだから、本気になって探せば、いくらでも情報はある。そのうえで、おかしい、変だと思ったらガンガンつっこめ。
 
学校でいじめられるなら、学校に行くな。社会でいじめられるなら、社会に出るな。助けてもらえるヒトがいるうちは、そこで生かしてもらえ。そんで、生かしてもらうことが苦痛に感じるようになったら、自分で生きろ。
誰も助けてくれないなら、てめえで生きろ。それが出来ないなら死ね。
 
親がクソだって? なにをいまさら。親ってのはおまえより年上で、おまえに対して責任を押し付けられた、おまえと同じ人間なんだ。過度な期待はするな。おまえ自身を見て、おまえの親がどの程度の人間かを判断しろ。
 
とまあ、弱者ってのは、
こういう理不尽を押し付けられるから弱者
なんですけどね。
上の言い分が気に食わない。弱者を虐げるのは間違ってる。
そう思うなら、まずは、自分が動くことだと思うんですよ。
 
いや、俺はもちろん、うごきませんけどね。
ガキいないし、社会的にも性別年齢、経済、なにをとっても弱者じゃないですから。文句があるならかかって来い、状態です。自分への理不尽は『死』以外許す気はないです。できれば、死も許したくないくらい。
 
あ、なんかいじめ関係なくなってきたね。
しかも、酔っ払って何言ってるんだかわからなくなってきたね。うん、えらそうに弱者じゃないとか言っても、こんなもんだよ。むしろ、ここまでグダグダ書いてきたこの文章に対する責任の所在のが問題だよ。
 
俺よりガキが死ぬのは、やりきれないから。
今、ここで決めることにしよう。
1970年以降に生まれた人間は、俺が死ぬまで死んじゃダメ
 
いいな? みんな守れよ?
 
俺より年上?
 
そこまで責任もてるか。