笑ってる?

創作サイト【神々】の日記

自由

こないだちょっと、自由と言うことについて話す機会があった。
正確には、ある友人の『自由について』の考えを聞いたのだ。
その内容については彼自身の考えであり思いだから、ここに書くことは控えるが、そのあと、俺もちょっと真面目に(たくさん真面目になると、俺の場合、ロクな結果にならない)考えてみた。
 
自由を定義するのは難しいけど、不自由を定義するのは簡単だ。
縛られること
人にであれ、社会にであれ、とにかく『縛られること=不自由』だってのに異論ないと思う。多いのは『傍らの異性』や、『自分の子供』、社会の最小単位である『家庭』だろう。サラリーマンなら『会社』ってのも侮れない。んじゃ、自営業なら自由かってーと、結局ちいさな『会社』なワケで、社会的な縛りはやっぱりある。
んで、不自由を感じたとき、人は自由を求めるわけだ。
本当に自由だったら、自分の手にあるものを『求め』たりしないはずだから。だが、当然そんなもの、簡単に手に入るわけはない。金銭、家族、そのほか生きてゆく糧の代償として、『縛られ』るのだから。
それは、誰にも自明のことのはずなのだ。
 
ところが、自由でないことを、もしくは不自由を感じることを、嘆く者がいる。いや、誰だって不自由を感じれば不満に思い、それがどうにもならないとなれば嘆くだろう。それは当たり前のことだと思う。
ただ、その嘆きがあまりにも短絡でお手軽なことが多いのが、ちと疑問を感じずにはいられないのである。不自由を嘆いてるわりには、その不自由をどうにかしようと言う本気が感じられないのだ。
 
たとえば前出の友人。
彼は彼の考える自由を得るために、多大なリスクを背負っている。
大きなリスクを充分に理解し、彼はそれでも自分の考える自由のために、あえてそれを背負っている。だから彼の言葉は俺の心にしみるし、彼が彼の定義において自由であることは疑う余地もない。
詳細を書かないために伝わりづらいかもしれないが、簡単に言えば、彼は自分の考える自由のために、命を賭けている。言葉だけで自由を欲しがるのではなく、黙したまま、己の自由に対して命を張って生きている。
だから、彼の自由に対する言葉には、重さがあるのだ。
命の重さだから。
 
人生のかなりの時間を対価にしてまで得た金。それはどうあれ稼いだものの人生の一部だ。簡単に『金よりも大事』などと言うには、重すぎるものだと思う。
金より大事なものがある、と言う言葉自体が間違いだなどとは言わないが、少なからぬ己の人生を費やして得たモノである以上、簡単に貶(おとし)めることはできないと思う。
同じように『自由は何よりも大事』、と言うのなら、それなりの覚悟を持って自由と言うものを捉えるべきだと思うのだ。金を得るために人生を費やすがごとく、自由のために人生を費やす。
そうしてこそ、自由というものの価値を理解できると思うし、それでも手に入らない時、心から嘆くことが出来るのだ。金が簡単に手に入らないがごとく、自由も簡単に手に入れられるものではないのだ。
 
金はごくまれに、幸運によって手に入れられる場合もあるが、自由は努力ナシに手に入れることは出来ない。貴重にして入手困難であるコトをまず理解し、手に入れるために金以上の努力をする。
そこでようやく、自由を語る権利を手に入れられるのだろう。
人の境遇をアレコレ言う前に、その人がどうやってその自由を得ているのか、そこに考えがめぐれば、簡単に、しかも相手を揶揄するような口調で『自由でいいなぁ』などとは言えないはずだ。
 
自由は努力した分だけしか手に入らないのである。