笑ってる?

創作サイト【神々】の日記

おやすみ

ダチが逝った翌日も、俺はバカ話をして笑っている。
そのことを余人がどう思うかは各自の判断にゆだねたいが、俺自身はきわめて健康なことだと思っている。若いヒトほど俺の言葉にはうなずけない可能性が高いかもしれないが、言葉の外や隙間に意味を探せる年齢、もしくは人格であれば解ってもらえるんじゃないかなと思う。
解ってもらえなくてもかまわないが。
 
この歳で、しかも単車乗りであれば、逝ったダチもそりゃあ何人かはいる。
だが、だから慣れてるとかそういう話ではない。
ヒトは自我に目覚め、自分が存在(あ)ることを知った瞬間から己の死を意識するようになる。自分の生き死にのことだから、それこそ死にもの狂いで悩み、考え、そして答えの出ないことを知る。死ぬという事実に折り合いをつけ、あるいはそれを拒む。生きていられることに感謝し、あるいは絶望する。
要約すれば、ただひとつ。死にたくないのだ。
死なないですむのなら、一兆年ローンを組んだっていい。カッコつけずに本心を言えば、俺以外の誰が死のうと、俺は死にたくない。美しく死ぬより、醜くても生きていたい。俺のイチバンの宝物である、ダチをささげてさえ生きていたい。死にたくない、死にたくない、死にたくない。
だけど、ヒトは必ず死ぬ。生まれた瞬間から死に始める。
死に救いを求めるのが宗教であり、死を受け入れるためのマニュアルが宗教である。しかし小学生のとき布団の中で死について考え、己が消滅した後も世界が続くことに限りない恐怖を覚えて布団に包まった俺を、神様は救ってくれなかった。俺は布団の中でものすごい恐怖と戦って、何とか生き抜いてきたのだ。
 
単車に乗るようになって、死はより身近になった。
だからと言って生をあきらめられるわけでもないし、死ぬことを仕方ないとも思えない。身近になった分、死はより一層の恐怖で俺を責めさいなむ。あるときは負けたくないという意地が、あるときはイイトコ見せたいという見栄が、死を感じて恐怖する俺に、それでもアクセルを開けさせた。
自己の死を天秤にかけることを、何度も経験し。
そこで俺は知ったのだ。いや、知ったと言うより実感したのだ。あまりにも昔から、あまりにも言われ続ける、陳腐にして、しかし間違いのない真実を実感したのだ。俺もお前も、あいつもこいつも、全ての人間は死ぬのだよ。当たり前のことなのに、当たり前のように誰も知らぬフリをしているけれど。
 
俺はかみだ。
ええかっこしいだ。
だから、内側からあふれ出る恐怖を、どうにか押さえ込んで言うのだ。
「どうせいつかは、みんな死ぬ」
だからさ。色んなコトがあったけれど、それでもアイツは俺のダチだからさ。死後の世界とか、そりゃあればいいけど『ある保障』なんてどこにもないんだからさ。あいつはもう、死んじゃってどこにもいないんだからさ。俺が泣いたって怒ったって何をしたって、もう、アイツの生き死にには関係ないんだからさ。
だったら俺は笑うよ。
笑って、何事もなかったように生きてゆくよ。
「今度さ、旅に出ようよ」
そう言って笑ったアイツの顔に、親指を上げて。