笑ってる?

創作サイト【神々】の日記

視点

オトナになるということは、視点が増えると言うことじゃないでしょうか。
誰かに対して怒るのは簡単です。そして、経験値の少ないヒトは怒りっぽいです。彼らの正義は単純で、『侵すべからざる神聖なもの』だからです。自分は被害者で、相手はまったくわかってないくせに文句を言うバカ、と言う認識なのです。
基本的には若者の方が経験値が少ない場合が多いですが、もちろん若くても世の中と正対して逃げずに生きてきたヒトは経験値が高いですし、歳ばかりとっても何の経験もしてない、あるいは経験がまったく身になってないヒトも居ます。
だからここで言うオトナとは年齢ではなく、概念としてのオトナです。
 
誰かの行動やその結果を、怒ったりバカにすることは、ある種のヒトには簡単です。
彼らは結果だけを見て「自分はそんなバカなことはしない」と簡単に決めつけ、そこで思考を停止してしまうからです。結果を見て全体像を見て、その上でいわゆる『神の視点』から評価するなら、世界中の大抵のことはそりゃぁ簡単です。
『その結果を出したヒトは、先も見えず全体図もわからないまま手探りで前に進み続け、最終的のその位置へ立ったのだ』、と言うことが想像できないから、簡単に「あんなことは自分にだって出来る」「なんであんな簡単な間違いを犯すのだ」と言えてしまうのです。
 
色んな経験を積むうちに、何度も失敗したり間違いを犯します。
でも、だからこそそれが血肉となり、似たような状況に陥っているヒトの行動や結果に対して、単純な善悪や一般論でない、自分なりの『血の通った評価』が出来るのです。だからこそ、何かを言われた、あるいはされた時にも『赦(ゆる)す』ことが出来るのです。
上から目線で『カンベンしてやる』のではなく、『理解する』ことが出来るのです。
自分なりの複雑な正義があり、しかも『かつて自分もその正義に反したことがある』からこそ、誰かの行動や言動に対して、単純に憤(いきどお)ることなく理解や赦しを示すことが出来るのだと思います。それがオトナになる、ということなんだと思います。
 
俺は単純で大雑把です。
熱しやすく冷めやすい、自己中心的な人間です。それはガキのころから変わっていませんが、そんな俺でさえ四十年も生きていれば、それなりに経験もあります。若いころに比べれば、経験値の分だけヒトを責める事が出来なくなりました。
ヒトを責めるには、俺は汚れすぎているのです。
 
かつて俺の潔癖な怒りを受け流していた大人たち。
彼らの気持ちが、今は良くわかります。
ただ、あの時「俺はこんな大人にならない」と決心した俺にたいして、今の俺は一片の恥ずかしさもありません。胸を張って「大人になればわかるよ」と、あのときの大人と同じことを言うでしょう。かつての俺の潔癖さは、『ヒトの間違いを赦さない狭量な潔癖さ』ですから。
 
とまぁ、偉そうに語ってはみたものの、もちろん俺の中にも迷いは山ほどあります。
視点が増えたはいいけれど、全ての立場に立って考えるのは不可能ですし、視点が多いだけに直感で「こうだ」と思ったことに対して、別の視点が「待った」をかけるので、それを整合する分、何事につけ時間がかかります。
この秋には四十歳。
誰がなんと言おうと俺は「不惑のオトナ」なわけですが。
はたして惑わなくなる日は来るのでしょうか。