笑ってる?

創作サイト【神々】の日記

ある週末

六十代後半の男性が、七十代前半の女性に恋をしました。
男性は妻子に逃げられてもう数年、女性は夫に先立たれ子供はすでに自立。法的には何の問題もない、要するに『自由恋愛』です。そして、わざわざ『法的には』と書いたのはもちろん、
『ご近所レヴェルの話で問題だらけ』
だからです。
少なくともウワサする側は、問題ありだと囁(ささや)いています。
 
 
そんなコトは一向に気にせず、男性は自分の家の庭で作った花を、その女性の元へせっせと送り届けます。もともと仲良くなった原因でもある、綺麗に整えられた美しいその庭も、今まで以上に気合を入れて世話をします。
 
「おねぇちゃん(年上の女性を、男性はこう呼んでいました)、ほら新しい花が出来たよ」
「あらぁ、綺麗ねぇ。おにいちゃん(同前)はお花作りが上手いわねぇ」
 
男性は近所でも評判のよくない、吝嗇(りんしょく:ケチ)のへそ曲がり。女性は小さなことにすぐ怒ってはヒステリックな悲鳴をあげるエキセントリックな人。そんなふたりですから、もともと近所の目なんて関係ないのでしょう。
堂々と道端で、うれしそうにいつまでも話します。
知らない人が見れば、仲睦まじい老夫婦に見えるかもしれません。
 
男性が普段のしかめっ面からは考えられないほど表情を緩ませ、花の鉢を持って小走りに駆けてゆく様は、見ようによっては恋する少年のように微笑ましく見えるかもしれませんが、(実際、精神的には大差ないのでしょうが)男性の性格を知っている人間は、やはり眉をひそめざるを得ません。
女性が普段の金切り声とは程遠い、優しい声で花を褒める様子も同様です。その、およそ理性的とは言い難いふたりの様子は、醜悪とまで言っては可哀想かもしれませんが、近所の人間にはそれに近い感情を抱かせるのでした。
 
「まったく、いい歳をしてみっともない」
 
周囲の感想を端的に述べれば、つまりそう言うことだったのです。
 
 
  
ところで、ふたりの家の近くには、中年の男性が住んでいました。
『恋に貴賎はなく、年齢も、場合によっては性別も関係ない。ふたりの人間が惹かれ合い、愛し合っているというだけであるなら、そこに他者がクチを挟む必要も権利もない』
普段、そんな風に考えているその中年の男は、苦笑しながらも、ふたりの恋の行方を見守っています。
 
バイクを趣味とする(本人は生き様だと言い張っていますが、客観的に見て趣味でしょう)彼には、若い女性から年上の男性まで、バイクで知り合った幅広い年齢層の友人がいました。当然、若い友人達からは恋の話が多く出てきますが、もちろん彼は基本的にノータッチです。
彼も中年といわれる年齢ですから、恋のひとつやふたつしたことはもちろんありますが、一度だけ我を忘れてすべてをささげるような恋をした相手に、こっぴどく裏切られて以来、なりふりかまわぬ恋をすることがなくなりました。
今は好きな人と、穏やかな関係を築いています。
 
「燃えるような恋と言えば聞こえはいいが、恋に恋して燃え上がっているとき、相手を見ているようで実は、相手に投影した自分に恋をしているんだ。だから相手が意のままにならないと言っては怒り、自分を見ていないと言っては怒り、動揺し、泣くのだ」
 
それは、相手のことを考えているとは言わない、と言うのが彼の持論でした。
 
「相手を愛し、相手もこちらを愛してくれているのだとしたら、やるべきことは『相手のために』何かをすることではなく、相手が愛し認めてくれた『自分自身』を、ゆるぎなく保つことじゃないか。『自分を想ってくれる相手』『自分に都合のいい相手』ではなく、人間として『単品の相手』が大事なんだ」
 
中年の男は、そう、つぶやきます。
 
  
恋人と、自分自身。
お互いが寄りかからずに独りで立ち、その上で関わり方を模索することが、愛するってことなんだと、彼は思っていました。そして、「愛してくれない」と嘆く友人と、人目をはばからず愛し合う老人のどちらにもクチを挟むことなく、だまって見守るだけだったのです。
 
 
中年の男性は、治療家でした。
彼の治療院には、若い人から老人まで、数多くの人間がやってきます。
 
「先生、わたし今度、結婚するんだよ」
「先生、わたし今度、離婚するんです」
 
中年の治療家は、その笑顔にうなずいて微笑み、その暗い声に穏やかな沈黙で答え、患者を送り出したあと、ひとり考えます。結婚する彼女は数年後には離婚するかもしれない。離婚する彼女は数年後にまた新しい恋をするかもしれない。
要するに、そう言うことなんだ、と。
 
『恋人』、あるいは『夫婦』などと「区切る」ことで安心を得ることが悪いとは思わないが、それはあくまで概念上の区切りであって、『恋人』や『夫婦』になったとたん、その中身まで変わるわけじゃない。
結局、ひとりの人間として相手を見、話を聞き、人格を認められないなら、長く続く関係にはなり得ない。
 
「男同士、女同士なら自明のことなのに、男女となるとなかなか難しいことだなぁ」
 
自分の恋の歴史を振り返り、友人たちの恋を見聞きし、他人の恋を眺めながら、中年の治療家は、そんなふうに考えるのでした。
そして、次の瞬間にはこうも思うのです。
 
「でも、そんな風に燃え上がることこそがシアワセだ、と思う人もいるのだし、それが好みだというなら、それこそ口を挟むいわれはないのか。一生、『相手を見ずに自分自身を投影して恋し続ける』ことだって、当人がそれを愛だと言うなら、そんなカタチの愛もあるのかもしれない」
 
なるほど、一生かかったって答えの出る問題じゃぁないな。
と、肩をすくめて苦笑いした中年の治療家は。
昔から言われる有名な、そしてまったく正しい格言のとおり、「人の恋路を邪魔するヤツはウマに蹴られて死ねばいい」とつぶやくと、それきりこの難しい問題にフタをしたのでした。
 
なぜなら。
 
 
   
彼には週末に迫った、
『ダチと呑んだくれるキャンプ宴会』
の方が大切だったからです。
 
 
つわけで、今週末は山賊宴会してきます。