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創作サイト【神々】の日記

慈愛

慈愛は、性愛や情愛よりも高みにあると言われます。
俺的には、愛という感情に優劣があるだとか、肉欲を伴うものより伴わない愛情の方が崇高と言う考え方には、ちと首を傾げてしまう感も否めませんが、そう考える方もいるようです。
逆に、憐れみと紙一重の傲慢な感情だと考える人もいます。
確かに肉体的な生活の安定と精神的な安定。その両方がなくては、他者を思いやる心から発生する慈愛と言う感情は、なかなか成立し難いかもしれません。
 
肉体的安定を欠いた、つまり自己犠牲的な行為というものは、それが愛情から発せられたとしても、そしてそれがどれだけ崇高だと称えられようとも、個人的には好きになれません。
いや、偽善だと指摘したいとかそういうことではなく、単純に、誰かの犠牲の元に自分が助けられたりするのが嫌なんですね。
助ける方は親切や、まさに慈愛の心でするのかもしれませんが、犠牲の上に助けられた方としては、感謝より、やりきれなさが残るような気がするんです。もちろん、感謝すべきなのは充分理解した上で。
 
個人的には、各個人が自立した上で自他共栄と言うのが望ましいと考えます。助け合うことを否定するのではなく、精神的な部分でお互い支えあうと言うのが、最上の助け合いなんじゃないかなって。
まず自分自身で立ち、そして他者に手を差し伸べるのではなく、他者を信じて見守る。この方が、俺の好みに合った慈愛の精神です。
 
慈愛そのものは、すばらしい感情です。
自己犠牲も、命を投げ出すとかそういうことではなく、その精神のベクトルだけを持つのならすばらしい考え方であると思います。相手の心を考えるからこそ、相手だけでなく自分も傷つかない方法を選ぶことができる。
それこそが、慈愛なんじゃないでしょうか。
俺には子供が居ませんが、次世代、次次世代が、そう云う形で慈愛に満ち溢れた人生を送ってゆける未来。金だの選択肢だの簡単にあてがえるモノの前に、そんな未来をこそ、子供に残してやるべきなんじゃないかなぁ。
 
そして、こんなことを考える時、ふと思い出すんです。同じように考えたからこそ、彼らは自分の子供の名前を選ぶ時、一片の迷いも曇りもなく名づけたのではないか?
そう……
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
慈愛子(ジャイコ)と。
 
最低、このくらいの理由は要ると思いますね、ホント。