笑ってる?

創作サイト【神々】の日記

欲望と精神

「男なんて性欲が服を着て歩いているようなもの」
 
よく言われる言葉ですね。
それに対して『種をまくのがオスの本能』とか言っちゃうと、泥沼の言い合いになってしまうわけですが、それはさておき。
 
性欲にかまけていることが、バカで下等だといいたいのは、その是非はおいといてわかります。理性を保って高尚な精神を持つことこそ、人間のあるべき姿だと言いたいんでしょう。それもわかる。
だが、それならば問いたい。
その高尚な精神とやらは、どうやって構築されたのか?
ヒトは独りで、その崇高な考え方とやらを身につけるのか?
そうじゃないわけですよ。
それは、はるか悠久の昔から、われわれの祖先が何世代をも経て構築してきたものでして、だとしたら、それはマニュアルだと言っていいわけです。人の資質ではなく、構築したマニュアル。
つーことはね? マニュアルをなぞっているだけの行為の、どこに高尚さがあるというのだ? って話になるわけですよ。
受け継いだものを己の内に生かし、はぐくみ、より高尚なものとして次代に繋げる。そういう気概を持って初めて、いわゆる精神の高みと言うものは存在価値があるんじゃないでしょうか?
精神の高み、道徳、そういうものは本来、みなが協力して作るモノだと思うんです。自然に存在する山ではなく、一丸となって作り上げた塔。そういうものであるべきだと、俺は思うんですよ。
先人の言だけを盲信し、自己の見い出した価値観のひとかけらさえ持ち合わせない、と言うのなら。俺はそれに対して、本能以上に高尚であると評価するべき、いかなる理由も見つけられないです。
維持することに意味がないと言うのではなく、同じことをなぞるだけでは、本当の意味での維持にはなり得ない。
まして自分の意見の構築や整理さえ出来ないくせに、マニュアルだけ読んで、それを論拠に本能を否定するのは、本能のまま動くことより、場合によってはみっともないんじゃないか?
そう、問いたいわけです。
 
と、アカデミックな感じで、浮気性を肯定してみたり。
いや、俺は一般的意見つーか風潮ってやつを聞くと、無意識レヴェルで反論を試みたくなるようで、いっつも『ああ、それはそうだ』言う前に、脳内で反論してみたりするんです。
んで、今回は患者さんのある奥さんが言ってた話を、表面上『ああ、そうですねぇ』といいつつ、脳内で反論つーかアンチテーゼを考えてたら、わりとカタチになってきたので、書いてみまして。
書いてみたら、どうってコトない話だったんですが、消すのも惜しいので上げておきます。異論反論は、ご自由に言ってもらって構いませんが、あんまり活発に返事はしないかもです。
俺の興味は、この辺の話より単車にあるんで(笑