ホテルへ向かう道すがら、アカネはぼんやりと外を眺める。
運転席のミツヒコは、渋滞が気に入らないのか、むっつりと押し黙っている。
サイドウインドウ越しには、繁華街の喧騒と光。
仕事終わりに待ち合わせて、食事をし、夜の街で遊ぶ。
そしてホテルで愛し合う、いつもの週末。
少し退屈で平凡だけれど、やさしくおだやかな幸せ。
飽きた、なんて言ったらバチが当たるだろう。
刺激的な日々にはあこがれるけれど、本当にそんな毎日はきっと疲れる。
いずれは彼の両親へ挨拶にいって、結婚するんだろうな。
なんの不満も不安もないけれど、だからこそ、少しの倦怠。
悩みって程のものでさえない、ちょっとしたわがまま。
反対側に目をやり、彼の横顔を見るともなく眺める。
週末の繁華街は、同じようなオートモビルが並んでいる。
渋滞にしかめっ面だったミツヒコが、ふいにこっちを向いて微笑んだ。
うん、まあ幸せな人生なんだろうな。
と。
ばしゅっ!
彼の横顔の向こう、サイドウインドウ越しに、ものすごい勢いで影が走る。
風切音が聞こえるほどの速度差に、ふたりともビクっと肩をすくめた。
驚かされたことで頭にきたのだろう、ミツヒコは不快そうに顔をしかめる。
「あっぶねぇなぁ、モータサイクルかよ」
二列に並んで渋滞するモビルの間を、モータサイクルが抜けていったのだ。
ミツヒコの言葉でようやく、アカネは影の正体を理解できた。
そのくらい、あっという間に見えなくなったのだ。
「速いねぇ、モータサイクルって。転んだら死んじゃいそう」
「死んじまえばいいんだ。乗ってるやつは、どうせろくでもない連中だ」
「また、そんなこと言って……乗ったことあるの?」
「ないよ、あんな危ないもの。普通の頭があったら乗らないさ」
やがて渋滞が流れ出し、ミツヒコはオートモビルを高速へ向ける。
繁華街のホテルはどこも満杯だから、少し郊外のホテルへ向かうのだ。
ふたりとも親と住んでいるので、お互いの家へ行くわけにはゆかない。
トイレに行きたいと言うミツヒコが、パーキングエリアにモビルを入れる。
アカネも降りて、夜の生ぬるい風に吹かれていた。
週末の夜だけに、たくさんのモビルが停まっている。
その一角に、モータサイクルが数台、剣呑な連中とともに並んでた。
みな、全身を黒い服に包んで、自動販売機の前で話し込んでいる。
時折、げらげらと大きな笑い声がして、見た感じ少し怖い。
「ほらな、ガラの悪い連中だろう? ろくなもんじゃないよ」
トイレから戻ってきたミツヒコが、声をひそめるようにしてそう言い。
アカネがそれに答えようとした矢先。
低い地鳴りのような声が、後ろから聞こえてきた。
「悪かったな、ガラ悪くて」
驚いて振り返ったふたりの目の前に、同じく黒尽くめの大男が立っていた。
気勢を呑まれて言葉を発せないミツヒコを、大男がにらみ付けている。
アカネの心臓がドクドク言い出し、冷や汗が背中を伝う。
「い、いや、あの……」
しどろもどろで答えるミツヒコに、大男は突然、ニヤリと笑った。
「いや、カラむつもりはねぇんだ。ちょっと聞こえちまったからさ」
笑うと愛嬌のある顔でそう言うと、答えは待たず踵(きびす)を返す。
ふたりに背を向け、大男はモータサイクルの方へ歩き出した。
しばらくその背中を眺めていたふたりは、ようやく我に返る。
「い、行こう」
「う、うん……」
あわてて肩を抱いたミツヒコに促され、ふたりはオートモビルへ向かう。
運転者が近づいので、自動的にロックが解除され、起動フェイズを終える。
スタンバイ状態になったモビルは、アクセルを踏むとすぐに走り出した。
エレクトロモータの低いうなり声と共に、モビルは滑らかに加速してゆく。
公定速度に達し、メインモニタに警告が表示されたところで。
ミツヒコは安心したようなため息をつき、アクセルを抜いた。
そこでようやく、アカネもためていた息を吐き出す。
「ああ、びっくりした。怖い人だったねぇ」
「ふん、カッコだけさ。どうせ負け組の貧乏人だよ」
驚かされたことと、醜態を見せてしまったことで、ミツヒコは機嫌が悪い。
そんな虚勢を張らないで、素直に気持ちを言ってくれればいいのに。
そう思いはするものの、口に出せばもっと機嫌が悪くなることはわかっている。
アカネは黙ったまま、フロントグラス越しに夜の高速を見つめていた。
「どうして、信じてくれないの!」
「どうして、疑われるようなことをするんだ!」
ケンカは、どこまで行っても平行線だった。
お互い、相手に非があると思うから、なかなか妥協を口に出来ない。
彼を気遣って何かを黙っていると、その沈黙の理由を問いただされる。
言えば怒ることはわかっているから、なかなか口に出せない。
するとミツヒコは勝手に勘違いをして、愛情がなくなったなどと言い出す。
挙句の果てに「浮気だ」などと言われれば、さすがに黙ってはいられない。
あなたを思って言うのだ。素直に心を開いて欲しい。
そんな言葉をミツヒコは「虚勢」あるいは「小さなプライド」だと曲解する。
子供がすねてヘソを曲げているのと、本質的に変わらない。
誰かに軽く見られること、下に見られることを、彼は何より嫌っている。
それは普段なら可愛らしい強がりと感じられたが、今は不愉快でしかない。
お互い相手の言葉が信じられず、裏の意味があるように聞こえてしまう。
「素直になって」と口にするアカネも、すでに素直ではなくなっていた。
いまさら自我を引っ込めて素直になるには、アカネもミツヒコも若すぎた。
ふたりとも大人だとは言え、まだ22歳なのである。
アカネは自分でも意識しないまま、決定的な言葉を投げつけてしまった。
「男らしくない!」
あとは、売り言葉に買い言葉。
言葉の刃は、相手と共に自分自身をも傷つけて。
アカネはミツヒコの元を飛び出した。
ミツヒコと別れたことは、いずれ起こるべくして起こったことなのだろう。
お互いの思いをぶつけあうことで、見えなかった部分が見えてきた。
笑顔で見つめ合ってるだけでは、気づかなかったことに気づけた。
結果がどうあれ、それは悪いことじゃなかったはずだ。
あの大男は、きっかけでしかない。
最初の兆しはあのときに芽生えたが、いずれ時間の問題だったはず。
それは解っているから、あの大男に含むものはない。
しかし、確かにきっかけではあるから、なんとなく気になってしまう。
アカネの気持ちを言葉にすれば、そんなところだったろうか。
とは言え、あくまでそれだけのこと。
わざわざ会いに行こうと思うほど惹かれた訳ではない。
例のパーキングに寄ったのは、本当にただの偶然だ。
その証拠に、ほんのさっきまで、存在さえ忘れていたのだから。
父親のオートモビルを借りて、夜のドライブを楽しんだ帰り道。
パーキングの休憩所で、コーヒーを飲んでいると、外が騒がしくなった。
なんだろうと休憩所を出たところで、アカネは思わず足を止める。
パーキングの奥に、数台のモータサイクルが集まっていた。
「今日は、ひとりなのかい?」
驚きつつも、予感を持って振り返ると。
やはり、そこには例の大男が立っていた。
横にはスラっとした細身の、若い男が並んでいる。
「え、ええ。ひとりです……あ、今晩は」
「あはは、コンバンワ。こないだは悪かったね」
「いえ、そんな……悪いのはこっちですから」
「まあ、彼氏の言うことも、解らなくはないけどね」
ニカっと笑う大男につられ、思わずアカネも微笑んでいた。
厳密に言えば、この大男にも、ミツヒコと別れた原因の一端はある。
だが、そんなことを言う気もなくなるほど、男の笑顔は屈託がなかった。
「ひとりでドライブかい?」
「ええ、なんとなく家にいる気になれなくて」
「なるほどね。まあでも、そろそろ帰った方がいい」
首をかしげて言葉を待つアカネに、男はすこし厳しい表情になった。
「これからは、俺たちの時間だ。危ないからね」
「あなたたちの時間? あなたはいったい……」
「ははっ、まあ首を突っ込まないほうが無難な連中だよ」
そう言って厳しかった表情を緩めると、大男は若者と一緒に歩き出した。
のそりと歩いてゆく大きな背中へ、若者がからかいの声を掛けている。
「知り合いですか? あ、もしかして昔の彼女?」
「ぎゃははは! あんな若い娘がか? そんなんじゃねぇよバカタレ」
「ガンテツさん、隅に置けないっすねぇ」
「違げぇつってんだろ、イズモ。一般人だから巻き込むなよ?」
じゃれあいながら歩いてゆく後ろ姿を見つめながら。
アカネは思わず、クスっと笑ってしまった。
こわもてのイメージが、あっという間に崩れ去る。
「なぁんだ。いい人たちじゃん」
アカネは笑いながら、父親に借りたモビルの元へ向かう。
ドアを開けて運転席に座ると、メインモニタが明るく光りだした。
女性を模したやわらかい電子音声が、起動の合図を告げる。
「起動フェイズが終了しました。交通法規に従ってください」
アクセルを踏んで走り出し、パーキングを出る。
好きなクラシック音楽を聴きながら、夜の高速を走り出すと。
バックモニタに、ポツポツと光点が浮かび上がった。
「あ、もしかして……」
思った瞬間。
バシュ! バシュ! バシュン!
数台のモータサイクルが、アカネのモビルを追い越していった。
その中の一台が、ひょいと左手を上げてアイサツしてゆく。
真っ黒な幅広い背中は、あの大男のものだ。
「なによ、ちょっとカッコいいじゃん」
もういちどクスっと笑ってから。
アカネはちょっとだけアクセルを踏んだ。
すぐにメインモニタへ、速度警告表示が出る。
「うわぁ、どんなスピードで走ってるんだろ、あいつら」
肩をすくめてアクセルを抜き、警告表示が消えたところで。
モビルの鼻先を、自宅方面へと向ける。
なんだか楽しくなって、アカネは微笑みながら空を見上げた。
フロントウインドウの向こうに、天幕(ドーム)の内壁が浮かび上がる。
皇都をスッポリ包む、巨大な半球状の天幕、通称<ドーム>。
中に住む者を閉じ込める子宮であり、外郭世界から守ってくれる外壁だ。
人々は子宮の中で安心しつつも、閉塞した世界にため息をつく。
ドームを好む者はあまりいない。
もちろん、アカネもそのひとりだ。
「ちぇ、楽しい気分がだいなしっ!」
せっかくの楽しい気分を損なわれて。
アカネは肩をすくめて、大きくため息をつく。
それから天幕の内壁に向かって、大きく舌を出して見せた。
彼と別れて、ちょうど一週間目の夜のことだった。
第二話へ続く