「やれやれ、どうやら生きてる」
目を覚ましたイズモは、まず、そうつぶやいた。
それから横になったまま、あたりを見回す。
予想した病室や集中治療室ではなかった。
寝かされているのはどうやら、オートモビルのリアシートらしい。
革張りの高級そうなシートから、ゆっくりと身を起こす。
ウインドウから、見慣れたパーキングエリアの景色が見えた。
そこで、ふいにアタマの焦点が合う。
同時に、寝ていた場所の正体に気づいた。
これは、自分を跳ね飛ばしたモビルの中だ。
イズモは跳ね起きると、高級車のリアシートから飛び出そうとした。
そこで、ドアにロックがかかっていることに気づく。
ロックの解除装置が見当たらず、取っ手がむなしくカタカタと動くばかり。
「くそ、閉じこめられた!」
事故のこともあってか、自分でも驚くほどの怒りがわきあがってきた。
がん、がん、がん!
怒りに任せてドアやサイドウインドウを殴りつけ、蹴っ飛ばす。
「あけろっ! このやろう!」
それに気づいて歩み寄ってきた男が、外側からドアを開けた。
運転者がオートモビルから離れたため、自動でロックされてしまったのだ。
だが、そんなことは今のイズモには関係ない。
飛び出したイズモは、怒りに任せて飛び掛ろうとした。
そこで脚がもつれ、男の前に座り込んでしまう。
男がニヤニヤと笑いながら、肩をすくめてイズモを諭す。
「まだ、本調子じゃないようだから、無理はしないほうがいい」
「やかましい! てめぇわざとだろ! わざとやりやがったな!」
「ああ、そのとおりだ」
叫んだイズモの目を見ながら、男は平然とした態度で答える。
へたな言い訳なんかしやがったら、ぶっ飛ばしてやる。
そう思っていた矢先に、この開き直ったセリフである。
気勢をそがれてるイズモへ、男は言葉を継いだ。
「事故に見せて殺すつもりだったんだが、案外しぶといな、君は」
思わず息を呑んだあと、先ほどに倍する怒りがふくれあがる。
すばやく立ち上がり、怒りに任せて殴りかかる。
が、男は余裕をもって往(い)なし、ひょいと足を引っ掛けた。
まだ足元が定まっていなかったイズモは、盛大にひっくり返る。
「まあ、落ち着けよ。さすがに華家の人間を、今ここで殺そうとは思わない」
「なんだと?」
男は鋭い目をさらに細め、片側の頬を吊り上げる。
どうやら嘲笑(わら)っているつもりらしい。
「事故に見せかけて殺せと命を受けてたんだが、君は案外タフだった」
「命令……だと?」
「そしてつい先ほど、その命令も撤回された」
「いったい、誰が?」
イズモの問いには答えず、男は挑発するように笑う。
「よかったな、華家のお坊ちゃん。もう殺されないから安心していい」
「てめぇ……」
「もっとも、それでも殴りかかってくると言うなら、正当防衛……」
「おやめなさい」
凛とした声が男の言葉をさえぎった。
男は振り向いて声の主を確認すると、わざとらしく肩をすくめる。
それから深々と頭を下げ、皮肉な表情を浮かべながら、
「姫(ひい)さま、こういう連中とは、あまり関わらない方が」
と捨てぜりふを残し、パーキングの向こうへ歩いていった。
声をかけた女……女王と呼ばれていたイズモの友人は。
哀しそうな、見ようによっては泣き出しそうな表情をしていた。
「どういうことです?」
ぶすりと問うイズモに。
女王は美しい眉をひそめて、「ごめんね、巻き込んじゃって」とだけ言う。
もちろん納得のいかないイズモは、ちゃんと説明しろと食ってかかった。
すると彼女は、さらに困ったような、泣き出しそうな表情で答える。
「私の家がね、許さないのよ」
「なにをです? 俺を?」
「この場所にいることを」
女王は、彼にだけ聞こえるよう声をひそめた。
「許されようと許されまいと、私はここで走ることをやめる気はない」
「そんなことは、好きにすればいいでしょう」
「家の者にはそうはっきりと伝えたんだけど、それがまずかったみたい」
「家の者? それは?」
どうやら、彼女が華家だと思ったのは、正解だったようだ。
士家は武官だから、多少の荒っぽさも許される風潮がある。
しかし華家の、それも女性となれば、モータサイクルなど許されまい。
そんな風に思っていると、女王はとんでもない事を言い出した。
「私がやめないなら、一緒にいる者を消せばいい、と考えたらしいの」
「なんだって? むちゃくちゃだ! 誰がそんなことを?」
「お父様か……いえ、おそらく家令頭じゃないかと思う」
ひどい話だが、イズモはそこでいきなり激したりはしなかった。
女王の言葉を、何度も咀嚼(そしゃく)して考え。
そして、どうやら納得できる結論を導きだす。
そんな理由で簡単に殺そうとし、失敗しても悪びれず平気な顔。
たとえ巨大な権力を持っていても、普通はもう少し穏便な手を使うはず。
イズモの実家、三輪だって、さすがにそこまで無茶はしない。
そしてイズモが華家だと知っても、動じる気配さえない
三輪は酒神に仕え、酒やアルコール燃料などに関わる。
当然ながら国内に、莫大な権益を有している大華家だ。
その三輪を歯牙にもかけないとなれば、そんな存在はただひとつ。
(まさか皇家の血族だったとは)
神の血族が、夜な夜な違法走行しているというのは、確かに外聞が悪い。
それで、「姫(ひい)さま」の周りの連中、つまり彼らを一掃しようとした。
おそらく家司(いえのつかさ=皇家の家令)あたりの判断で。
そして失敗したあと、イズモが三輪だと知り、計画を中止したのか。
実に『らしい』、傲慢(ごうまん)で高圧的な考え方だ。
イズモは新たな怒りがわいてくるのを感じた。
しかしそれは、皇家の傲慢な考え方にではなく、目の前にいる女にである。
女王は何も知らなかった、おそらく、それは本当だろう。
だが、たとえ、主流ではなく傍流だったとしても。
彼女が皇家、つまり「神」と呼ばれる立場であるなら。
いずれこうなると、予測できたことでもある。
皇家が自分を殺そうとしたことは、納得はしないが、わからなくもない。
神は人間の上位にあるのだから、彼らがそう考えるのは、よくあることだ。
華家だって、その下の士家をぞんざいに扱うし、士家と衆民も同じ。
自分はそう考えないが、そう考える者がいることは知っている。
それより、自分が好きに走りたいからと、自分の都合だけを優先した。
『ほかの連中が巻き込まれる危険』を見過ごした。
その彼女の傲慢さが許せない。
ここでだけは誰も平等。
結局、本当はそう思っていなかったのだ。
彼女自身が、しばしば口にしたくせに。
神々は人間以上の存在だ。
だが、人間とて、すべて唯々諾々と従うわけではない。
神は祟(たた)り、神は恵む。
神々は坐(おわ)して、人々に豊潤をもたらす。
人々は奉(まつ)り、神々を寿(ことほ)ぐ。
この世界において、神は絶対者でなく「自然」の具現化した姿だった。
もちろんみな、神に対して畏敬の念を持ってはいる。
だが、恨みもすれば(言っても仕方ないとあきらめつつ)文句も言う。
神はお天道様であり、慈雨であり、嵐や津波でもある。
人と神とは、そんな関係だった。
だからこそ、イズモは許せないと思い、怒りを感じたのである。
「まさか、ここまでするなんて、考えてもみなかっ……」
つぶやく女王をさえぎると、イズモは無表情で膝をつき、臣下の礼をとる。
「臣下にあるまじき無礼、伏してご容赦、おん願い奉(たてまつ)ります」
女王は、凍りついた。
「これより二度と、臣(しん)が御前(ごぜん)に現れることはありません」
「え……あ……」
「無論、ここで見聞きしたことも決して口外せぬこと、確約いたします」
「イズ……モ……」
「姫様におかれましては、謹んで御心(みこころ)安んじられますよう」
立ち尽くす彼女には構わず、イズモは口上を続ける。
「これにて御前より辞しますこと、お許しくださいますよう、重ねて」
女王と呼ばれ、姫様と呼ばれた娘は、唇を噛んで震えていた。
臣下の礼を尽くした、丁寧な言い回しが、刃物のように胸を突く。
怒鳴られるより、罵(ののし)られるより、ずっと彼女の心を傷つけた。
神族の一柱として、尊重され、畏敬され、寿(ことほ)がれること。
それに慣れてはいても、納得もできていなければ、受け入れてもいない。
自分は神の血族に生まれたけれど、みなと何も変わるところはない。
この平等な世界でだけ、自分は血を忘れて、みなと一緒に笑えた。
そんな、こよなく愛した時間と空間、そして大切な人々。
それを自分が、永遠に失ったことに、彼女は気づいた。
彼女の心の支えであり、逃げ場所であった世界は。
今、音も立てずに崩れ去った。
それも、自分自身の考えの甘さが原因で。
後悔するにも、取り戻すにも、すべては遅すぎた。
イズモの、形式だけは礼を保った口上に、悲しそうな表情で答える。
「許す」
その声はか細く、ふるえていた。
たとえ大華家の子弟でも、このまま済まされるはずはない。
そうイズモに助言したかったのだが、口にすることはできない。
この場にはすでに、他の華家の手の者がいるはずなのだ。
彼女が皇家に連なるものだと、おそらく露見してしまっている。
他家のものが聞いている場で、これ以上の言葉はかけられなかった。
皇家は臣下を平等に扱わなくてはならない。
少なくとも建前ではそうなっている。
だから、イズモだけ、三輪の一族だけを特別扱いはできない。
それをすれば、他の華家たちが、決して黙っていないだろう。
有力な大華家である三輪。
その足を引っ張りたがるものは、掃いて捨てるほどいるのだから。
愛した場所でひとり、浮かび上がる涙を必死にこらえて。
女王は黙って立っているしかなかった。
やがて側近の連中に、そっと背中を押されるまで。
彼女はただ立ち尽くしていた。
一方、礼をして立ち上がったイズモは、内面で激していた。
くそっ、くそっ、くそっ。
女王の気持ちもわからないではない。
自分も華家の者として、ずいぶん不自由な思いをしてきたのだ。
だが、大切な場所は、大切な時間は、これで永遠に失われてしまった。
皇家がからんでるとなれば、すぐに規制の対象となる。
早晩、夜棲たちに何らかの規制がかけられることになるだろう。
自分だけでなく、ガンテツや他の連中も、大切なものを奪われてしまった。
あの陶酔の時間は、もうどこにもない。
叫びだしたい気持ちだった。
だが、まさか皇家神族へ、面と向かって罵声を浴びせるわけにはゆかない。
イズモは女王に背を向けると、表情を消して歩き出す。
ちらりと見た先に、先ほどの男と話しているガンテツたちが見えた。
彼と目が合ったときだけ、イズモは表情を取り戻し、そっと目礼した。
先ほどの臣下の礼よりも、よほど心のこもった礼だった。
ガンテツは唇の端だけで笑うと、ウインクして返した。
そしてすぐ真顔に戻って、男の話に聞き入る(風に見える)ガンテツに。
イズモは思わず、くすりと笑う。
大切な場所は、失われてしまったけれど。
尊敬していた女王は、色あせてしまったけれど。
それでもガンテツのおどけたウインクは、イズモの傷ついた心を救った。
「ガンテツさん、いずれ一杯やりましょうね。俺、あんまり飲めないけど」
ちいさくつぶやいて、またくすりと笑った。
第三話へ続く