笑ってる?

創作サイト【神々】の日記

己に拠って立つ

人はヒト単体でヒトであり。
もちろん協力し合わなくては生きていけないのだけれど、必要以上に依存したり、隷属したりと言うのは、きっと不自然なことで。協力と隷属の差は、個人が単体で立脚し得るか否かにあると思うのです。
 
無論、立脚するためには、足場を固めたり、基礎と言うか重要な下準備はいるわけですが、それを明確に意図してやっている人間は、それほど多いと思えないんですね、俺には。
もちろん、自分も含めて。
 
だから、とりあえず立ってみるってのは、大事なことだと思います。それによって、自分の基礎がどれほど不安定なのか、自分の骨子がどれほど脆弱なのか、実感できるはずだから。
自分で立ってみて、転んだりヨロついたりして、それでも何とか歩き出して、やがて少しづつでも自らの足で、自らの意思で、歩くことが出来る。そこでようやく、気づくんです。
親や、先人がしてくれた、アドバイスの意味を。
 
一生誰かの元でいい、一生隷属して、思考停止して生きてゆくと言うのなら、それも自己の意思なのだし、誰かが口を挟むことではないでしょう。でも、少なくとも俺は、そいつと呑んで語りたい話を、見つけられそうもありません。
その言葉に、どれほど真実や真理が隠されているとしても。
それを受け入れられないのが、多分、俺の限界なんだと思います。もっと柔軟な人間なら、そこからでさえ、何がしかの意味を見つけ出すでしょうが、俺にはそうなる意思さえありません。
 
それは多分、俺と言う人間の間口を狭めているのだけれど、人生を折り返し始めた現在、そこまでの柔軟さを持つには、俺の時間は残り少なすぎるのです。
行動し、何かを成した連中の話を聞き、俺の経験則や、このドタマで考えた理屈を伝える。お互いの情報を交換し合い、それを現実に生かし、あるいはただ楽しむ。
客観的な意味はともかく、主観的には大変意味のある、すばらしい時間。
それを持つだけで精一杯で、思考停止した、隷属して生きることに何の疑問も持たない人間からまでも、解剖して意味を引き出すガッツは、今のところ持てそうもありません。
それが出来る人間を、もちろん、心から尊敬はしますが。
 
人はヒト単体でヒトであり。
 
立脚した個人であるからこそ、その引き出しにはステキなものが詰まっているのだと、今は、そう思っています。