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創作サイト【神々】の日記

刹那主義

刹那主義という言葉がある。
往々にして否定的な感情とともに吐かれる言葉だ。
享楽主義とワンセットになって語られる場合も多く、あまり印象のよい言葉とは言いがたい。今さえ良ければいい、将来なんて知ったことか。そんなイメージが、そう言う扱いを受ける要因だろう。
だが、俺はあえて刹那主義を宣言したい。
上記のような意味ではなく、簡単に言えば一瞬一瞬を大切にすると言う意味での、かみ解釈としての刹那主義だ。
 
だったら、『一瞬一瞬を大切にしよう』と言えばいいではないか。
そう反論が来ることは予想できる。しかし、それではダメなのだ。
『一瞬を〜』と言う言葉の裏には、それを『積み重てゆこう』と言う意味合いが含まれる気がするからだ。『一瞬を大切にしてゆくことが、結果的に人生を大切にすることに繋がってゆく』と解釈できる場合が多いから、ダメなのである。
上記で言う『一瞬を大切に』とは、最終的な目標である『人生を大切にする』ための手段である。俺が言いたいのはそうではなく、『一瞬を大切にすること』そのものを目的とすべきだ、と言うことなのだ。
 
人間、小さなころは動物と同じだ。
本能の赴くまま、欲望の求めるままに行動し、それを妨げられると、怒り、悲しむ。それがモノだろうが状況だろうがお構いなく、いま、自分の思うままにならないことが、とにかく気に入らない。
最初に言った意味での、刹那主義である。
そこから他人と協調する必要性に迫られ、しかも、己の力が弱いことによって、その強制を受け入れなくてはならない。その繰り返しで人間は、社会性を得てゆくのだ。
そしてだんだん頭がよくなり、視野が広くなる。
空間の把握が四次元になり、時間と言う概念を理解できた瞬間、ヒトは動物としての枠をひとつ超える。昔があって今があり、いずれは将来がやってくると言うことを、漠然と、あるいは明確に知る。
未来を予測する力を得るのだ。
 
だが、この力は同時に、ヒトにとって大きな枷(かせ)になる。
未来にあるのは希望だけでなく、絶望や恐怖も同じだけあるのだ。目の前にない状況や事象を、頭の中で思い描いて、それに対して恐怖してしまうことさえある。自分の脳におびえるのだ。
だからヒトは、ともすれば将来を現在よりも大切にする
先々困らないように、今、やっておこう。将来のために、今、耐えよう。まだ来ない、脳内に描いた状況に対して覚える恐怖を、現在と言う代価を払って振り払うのだ。
 
もちろん、それが悪いと言いたいわけじゃない。
当たり前のことだし、大切なことだと思う。未来(さき)の長いコドモのころであれば、そう言うものも大切な場合が多いかもしれない。なぜなら彼らには、圧倒的に経験が足りないからだ。
だが、そろそろ人生を折り返そう、あるいはもう折り返しただろうと言う年齢になってまで、それは大切なことなのだろうか?
ある程度はともかく、過度な将来への備えと言うのは、俺にはどうしてもおびえにしか見えないのだ。もちろん、おびえと言うのは慎重さの裏返しであるから、それが一概に悪いと言い切ることは難しい。
オトナだからこそ、残り少ないからこそ、慎重になる。それもわかる。
しかし、だ。
人生の半分と言う認識、折り返したと言う認識そのものが、幻想ではないのか? 明日死ぬ可能性を簡単に見過ごしながら、将来に備えると言うのは、なにやら奇妙な話ではないか?
将来に備えて、今を頑張る。
で? その将来と言うのは、いつやって来るんだ? その将来がやってきたときには、また先の心配をしているのではないか? 俺は時々、そんな風に思ってしまうのだ。
 
将来の心配と言うのは、現在が楽しく、充実した上でするものだ。
少なくとも俺は、一生心配し続けて、死ぬ寸前に『あぁ、備えておいてよかった』と思うより、楽しんで生きて、最後の最後に一瞬『もっと備えとけばよかったかな?』と思う方が、性にあってる気がする。
不幸だの危機的状況だのは、結局、放っておいたってやってくるもんだ。最低限の備えだけして、あとは忘れて楽しむ方が、イタズラに見えない何かを恐れるより、気が利いてると思う。
 
将来のために頑張るより、今のために頑張る方が、俺は好きだ。
だから。
いい加減な、とか、考えなしに、という意味ではなく。
 
俺は刹那主義でありたいと思ってる。