笑ってる?

創作サイト【神々】の日記

不惜身命

風邪はだいぶん落ち着きました。
昨日は久しぶりに固形物を食い、今日はほとんどいつもどおりの食事が出来まして、せっかく痩せたのにまた太ってゆく所存でございます。肥満道に邁進(まいしん)するであります。
 
単車で速く走るって事は、いや、ただ走るだけでも命がけの行為です。
まして誰か競う相手が居ようものなら、その瞬間、まさに命がけで走ってしまうこともあります。少なくとも俺は、若いころにそういう走り方をしたことがあります。今でもないとは言い切れません。
そして年齢を重ねてくると、たとえば周りのヒトだったり、たとえば社会的な立ち位置だったり、あるいは経験という名の恐怖だったり、色々なモノが枷(かせ)となり、アクセルを緩めます。
若さはそれを老いと呼び、言われた方は分別だと切り返します。
 
一部の単車乗りにとって、これは永遠のテーマだったりします。
で、ご多分に漏れず俺も色々と考えまして。『歳食ったなら、事故って困るなら、怖いなら、ゆっくり乗るか降りればいい』という、まぁ、比較的よくある結論に行きつきそうになるんですね。
よくあるから間違ってるわけではなく、これはこれで真理なんです。
が、まだ40にわずかに届かない中途半端な位置に居る俺としては、どうも釈然としないわけです。いや、年齢は関係ないか。俺にはこの結論が、気持ちよく受け入れられないんです。
んで、シャカリキに走る、と。
 
速く走ることも、ゆっくり走ることも、俺にとっては等しく楽しい。
だから基本的には走ってればそれでいいんですが、走ってない時間のこの『釈然としない何か』に、いつももやもやとしたものを感じていまして。
 
上の最初の段落で、相撲の昇進の挨拶みたいな口調で冗談を書いてるときに、ふと例の『不惜身命』という言葉を思い出し、軽く調べてみたんですよ。すると、この言葉ってのは単に『仏法のために身命をささげて惜しまないこと』ではないと知りまして。
『但惜身命』と続くように、ただ命をかけりゃぁいいってモンじゃないってことなんです。自棄的な命がけなんてのは、誰でも出来る。それこそ、ヒトとしのぎを削ってれば、刹那的にやれてしまう程度のことだと。
 
命を惜しみ慈しんで生きながら、その上で仏法のために命を惜しまず行仏する。解釈も使い方も間違ってるかもしれませんが、俺は不惜身命をそんな風に理解しました。仏の道を歩む方々には呆れられてしまうかもしれませんが、俺にはこれが光明に感じました。
 
『ヒトとしのぎを削り、速くなるために走る』ことと、『景色を愛で、穏やかに走る』ことが、決して相反することではなく、それが『自分の中で矛盾なく成立すること』こそが、最大の目標なのではないかと。
速さを求めることがガキなのではなく、ゆっくり走ることがジジイなのではなく、もう一段上の位置から考えて、どちらも自分の中で成立させられるくらい『余裕を持って速く、楽しく走ってる』のが最高。
そんな風に思いまして。
 
速さを求めて走るからこそ、ゆっくり走ることが言い訳にならず、納得し、楽しむことに徹して乗れる。穏やかに走れるからこそ、カリカリしてたら気づかないことにも気づけて、より速く走ることが出来る。結果的に速くもなれるし、楽しんで走ることも出来る。
これは多分、言い切っていいんじゃないかなぁとさえ思います。
 
 
なんか観念的な話になっちゃいましたが、ちょっとうれしかったもんで。
興味のないヒトは、聞き流してやってください。
 
とりあえず、速く、ゆっくり、ロングツーリングに行ってきます。