木曜日の深夜2時。
帝都高速のパーキング。
平日の夜に高速へ上がり始めて、もう四日が過ぎた。
正直なところ、意地になっていることは自分でも気づいている。
最初こそ、ガンテツを訪ねてゆくことに、面白さを感じた。
だが、実際に「本気組」の集まる、平日に出かけてみれば。
自分の場違いさに、浮き足立ってしまう。
彼らが自分たちの違法行為を、どう思ってるかは分からない。
彼らなりの理屈があるのか、それとも開き直っているのか。
しかし、そんなことはどうでも良かった。
アカネにとって問題は、「彼らの世界そのもの」にある。
怖いのだ。
バックモニタに、ポツリと光点が浮かんだと思うと。
ひと呼吸する間に、点は洪水となって背中に迫ってくる。
車線をゆずる暇もなく、恐怖に硬直した次の瞬間。
公定速度の2〜3倍と言う、狂気の速度で抜き去られる。
風切音がうなり、サイドウインドウが震え。
我に返ったときには、赤いテールランプが小さく消えてゆく。
ハンドルにしがみついていたアカネは、そこでようやく息を吐くのだ。
それでも三日目くらいから、ようやくコツをつかんだ。
車線変更をせず、一定速度で走ればいい。
余計な動きさえしなければ、彼らは勝手に抜いてゆく。
「なにやってんだろ、私」
そう思わないでもなかったが、ここまで頑張ったのだからと意地になる。
それに、確かに恐怖は感じていたが、同時に魅力も感じていた。
自分には想像もつかない速度で、夜を駆ける彼らの目に。
世界はいったい、どんな風に映っているのだろう?
もはやガンテツに会って談笑するなどと言う気持ちは消えていた。
ただ、彼らの世界の片鱗に触れ、感じてみたい。
そのオートモビルは、ちょっと様子がおかしかった。
速いことは、まあ速いのだが、それより。
なんと言うか、車体にまとう空気が違うのだ。
「何が違うんだろう? なんだか変な感じ」
アカネには、その違和感を具体的に説明できない。
そして説明できないながらも、妙な警戒を抱いてしまう。
「あのモビルには、近づきたくない」
強いて言葉にすれば、そんなところだろうか。
怖さより不快な違和感を、アカネは感じていた。
そして、その違和感は正しかった。
環状線で、何度も同じモビルに抜かれるのは、いつものこと。
しかし、例の不快なモビルが、二回目に近づいてきたとき。
派手な赤で彩られたその車体は、アカネの横で速度を緩めた。
横に並んだサイドウインドウは真っ黒で、中の様子は分からない。
アカネは、嫌な気持ちになると同時に、あせりを感じた。
このまま併走していたら、後ろから来る夜棲の邪魔になる。
申し訳ないというより、事故になるのが怖い。
仕方なく、モビルの鼻先をパーキングへ向けた。
すると、赤いモビルもアカネの後へついてくる。
ますます不快で、気持ち悪い。
嫌な脂汗が吹き出すのを感じながら、パーキングにモビルを停める。
赤いモビルはその横へ、ぬるりとした曲線の車体を寄せた。
急いでモビルを降りたアカネは、休憩所へ向かって歩き出す。
すると、同じく降りてきたドライバーが、その後ろから声をかけた。
「よう、待てよ姉ちゃん。そう、つれなくするなって」
ネバつく声を聞いた瞬間、アカネは総毛立つのを感じた。
今まで何度もパーキングに来て、週末なら知り合いもいる。
そして平日にきたこの三日間は、それとは正反対。
当然のことながら、「本気組」の誰も声を掛けてこなかった。
しかし、週末組と本気組のどちもにも共通する事がある。
週末組は仲良くできたし、本気組も仲間同士の会話は楽しそうだ。
速度や世界は、確かにとても怖いけれど。
彼らも人間としては、アカネと同じ常識の中に住んでいた。
ところが、後ろから聞こえた声の怖さは、全く別だった。
夜棲の危険さは、離れてしまえば関係のない世界の話である。
しかし、この男から感じる危険さは、「自分が対象」の危険さ。
ありていに言えば、強姦、暴行、強奪に対する恐怖である。
「まあまあ、そう硬くなるなって。話くらい聞いてくれてもいいだろう?」
男は、なれなれしい口調で、話しかけてきた。
「なんですか」
振り向かないまま、アカネは硬い声で応じる。
すると、男が返事をするより早く、別の声が聞こえてきた。
感情のないその声音は、背筋にゾクゾクとした悪寒を走らせる。
「なんだ、女がゴネてるのか?」
思わず振り向くと、ふたりの男がこちらを見ながら立っていた。
ひとりは長髪で、背が高く痩せている。
爬虫類のような瞳は、どこを見ているのかさえ、判然としない。
顔は整っているのだが、とにかく全体に生気を感じられない。
こちらが、後から声を掛けてきた男であった。
そしてもうひとりは髪を短く刈り込んだ、中肉中背の男だ。
鍛えられバランスの取れた身体だが、背中を丸めた姿勢が悪い。
ふちのないメガネをかけた顔に、意地の悪い笑みを張り付かせている。
背の高い男は、面白くなさそうに突っ立っている。
メガネの男は粘ついた視線で、アカネをニヤニヤと見つめる。
その視線に、実に不愉快な「湿気」があった。
女に生まれて、女として生きてこなければ決してわからない。
そんな類(たぐい)の湿気だ。
アカネはキョロキョロと辺りを見回す。
パーキングのはるか向こうに、夜棲たちの姿が見えた。
意を決して、大声で助けを呼ぼうと、息を吸い込んだ瞬間。
「まったまった、俺たちはミツヒコのダチだぜ」
メガネの男が口にした名前に、アカネの心臓が止まる。
水野ミツヒコ。
それは、ほんの一ヶ月前まで、結婚を考えていた男の名前だ。
付き合ってると知ったとき、両親が喜んだ名であり。
別れたあとはそのふたりに、失望と不安をあたえた名でもある。
そして、この閉鎖されたドームの中では、それなりに知られた名だった。
ミツヒコの名はともかく、水野という姓には大きな意味がある。
水野家はこの国の支配階級のひとつ、士家(しけ)に属するのだ。
衆民であるアカネとは、まるっきり身分が違う。
だからこそ両親は、ミツヒコとの交際を喜び、破局に失望したのだ。
もっともアカネの方は、結婚などありえなかったと、今ではわかっていた。
ミツヒコの人となりを考えれば、彼が自分と結婚などするわけがない。
他人を上から見下し、不都合はすべて自分以外のせい。
彼の人間に対する判断基準は、いつも身分と家柄と経済力。
「身分や家柄より、人間は中身が大切だと思わない?」
ミツヒコのそんな言葉も、要するにポーズだったのだ。
下々の者にさえ平等な自分は、なんと立派な人間だろう。
そんな風に、自分を演じて、酔っ払っていたのである。
「知ってるだろう? おまえの元彼の、水野ミツヒコだよ」
「そう、モトカレよ。今は関係ない」
「ところがミツヒコ的には、関係ないじゃ済まないんだよねぇ」
メガネの男は、じっとりとした視線をアカネに這わせながらニヤリと笑う。
その横では背の高い男が、アサッテの方を見ながら立っている。
しかし、時折こちらへ向ける視線には、氷のような鋭さがあった。
「士家の長男坊が衆民の女と、遊びとは言え付き合ってた」
「それを感謝しろって言いたいの?」
「じゃなくて、バレたら外聞が悪いだろ? 士家は体面を気にするから」
「心配しなくても、誰にも言わない。私だって忘れたい過去だから」
アカネの返事に、メガネの男は首を横に振る。
「それじゃ信用してくれないんだよね、向こうさんにとっては死活問題だし」
「じゃあいったい、どうすれば……」
「事故死だ。おまえは別れを苦にして無謀な運転をし、事故で死ぬんだ」
背の高い男の非情な言葉に、アカネは声を失う。
「本来ならさっき走ってる間に、事故を起こすところだった」
「…………」
「だけど、それじゃあもったいねぇだろう? おまえみたいに美味そうな女」
メガネの男が下卑た薄笑いを浮かべて近づいてくる。
「おとなしくいい子にしてろよ。そしたら、殺さないでやるかも知れん」
その言葉へ、アカネよりも先に、背の高い男が反応する。
「どういうことだ? おまえが楽しんだあと、殺す手はずだろう」
「ばーか、あんなはした金で殺しなんて、おまえ本当に考えてたのか?」
「なんだと? キサマ裏切る気か?」
背の高い男が冷静なまま目を細めると、メガネの男が笑う。
「この女が邪魔って事は、逆に言えば、カネになるってことだろうが」
「……なるほど。しかし、水野を敵に回して、どうやる気だ?」
「けけけ、やっぱり乗ってきたか。そうこなくちゃ。なーに、簡単だ」
「傍流とは言え士家だぞ? 動かせる連中も多い」
「ふん、俺たちみたいな、か? そこだよ、問題なのは」
男たちは世間話をするように、のんびりした口調で言い合いながら。
いつの間にか、アカネの逃げ道をふさいでいた。
こういったコトに慣れているのだろう、動きに無駄がない。
そして、アカネが大声を出そうとした、その瞬間。
背の高い男の腕が伸びて、彼女の口をふさいだ。
同時にメガネの男が、取り出したゴムボールを、アカネの口に押し込む。
クチにボールを突っ込まれた上から、顔ごと布でふさがれた。
数秒でこれだけの事を行うと、ふたりは手際よくアカネの四肢を拘束する。
プラスチックのベルトが手首と足首に巻かれ、カチリとロックされた。
とたん、アカネの身体は抱え上げられ、地面を離れる。
恐怖でパニックになったアカネは、死に物狂いで暴れた。
しかし、四肢を拘束された上、顔に布を巻かれ、口にはボール。
もごもごと芋虫のように動くだけで、なすがままに運ばれてしまう。
「いやだ、いやだ、いやだ! たすけて! たすけて!」
頭の中で狂ったように悲鳴が渦を巻くが、口に出すことは出来ない。
やがて、どさりと柔らかい物の上に投げ出される。
赤いモビルの後部座席へ、放り込まれたのだろう。
必死になって当たり構わず暴れていると、くるりと身体を裏返された。
そして、手首と足首の縛(いまし)めを、ベルトでつながれてしまう。
アカネは両手両足を後ろに回し、シャチホコのような姿で動けなくなった。
くぐもった悲鳴が漏れ、顔を覆った布に、涙がしみこむ。
「おい、おまえが運転しろよ! 俺はこっちでやることがある」
「ダメだ。キサマのスケベ心で万が一があっては、俺が困る」
「……ち、わかったよ! その代わり、姦(や)るのは俺が先だ」
「俺はやらん。それよりドコへ運ぶ気だ? 例の場所は使えないぞ?」
「がはは! そりゃそうだ。のこのこ戻ったら、女ごと消されちまうからな」
身体をまさぐるメガネの男の手から、必死で逃げていたアカネは。
ふいに、その手が離れてゆくのを感じた。
代わりに、背の高い男の声が、驚くほど近くから聞こえてくる。
「おい、静かにしてろ。今すぐ殺しても、こっちは困らないんだぞ」
内容よりも、声の持つ冷たい凄みに、アカネは身体から力を抜いた。
もちろん、あきらめる気なんて毛頭なかったが、今はどうしようもない。
隙を見て逃げ出すためにも、おとなしくしよう。
メガネの男は自分を強姦する気だから、そこに隙ができるだろう。
そんな風に考える自分に、アカネはすこし驚いた。
恐怖のメーターが振り切れて、現実味が乏しくなったのだろうか。
もっとも、たとえ偽りの冷静さだとしても、今はありがたい。
とにかく今は、こいつらから逃げ出すことが最優先だ。
ぐん。
身体にGを感じた。モビルが走り出したのだ。
縛めを解かれた時が勝負だと思いながら、アカネはおとなしくしていた。
アクロバティックな恰好をさせられているので、あちこちの関節が痛い。
「ああ、そうそう。助けを期待してるんなら、ムダだからあきらめろよ?」
運転席の方から、メガネの男のバカにしたような声が聞こえてきた。
あの男が離れてくれたのは、本当にありがたい。
そのことだけは、長身の男に感謝してもいいくらいだ。
「士家ってのは武官だからな。警邏(けいら)関係者が多いだろう?」
だからパーキングでの一幕は無視される。そういうことなのだろう。
彼らが防犯カメラを気にしなかったのは、そういう理由だったわけだ。
犯罪行為となれば、IDにキズが付くどころの話ではないのだから。
「この派手なモビルのことは、今夜に限ってすべて無視されるのさ」
本来ならこの赤いモビルで交通事故を起こし、自分を殺害する。
しかし赤いモビルは無視され、アカネの単独事故として処理される。
そういう段取りだったに違いない。
それを逆用すれば、このモビルに乗っている限り、かなりの無茶が出来る。
男の言ってるのは、つまり、そういうことだった。
アカネから、またひとつ希望が抜き取られ、代わりに絶望が注入された。
ダメだ、あきらめるな! まだ死んでしまったわけじゃない!
そう自分を鼓舞するのだが、時間とともに恐怖が心を侵食する。
ボールを噛まされた口の端から、よだれが顔の布へしみこんでゆく。
エビ反りにされた身体がきしみ、手首と足首にベルトが食い込む。
怒りと、恐怖と、屈辱で、泣き出しそうになりながら。
アカネはじっと耐え続けた。
第四話へ続く