笑ってる?

創作サイト【神々】の日記

長げぇぞ、誰も読まねぇぞ

ここんとこ研究し、練習してきたことがありまして。
長いこと同じ仕事をしてますと、熟練してくる分、新しい状況への対応が鈍くなってくる場合が多いです。ですが、一応医療の一端を担うものの責任として、常に新しい状況へ対応してゆくことを、俺は自分に課しています。
その一環として、あくまで末端の現場の人間としてですが、学んだことを自分の領域内に組み入れるための工夫を、若い衆に手伝ってもらって練ってまして。それが一応の目処と言いますか、結果が出たようで、ほっと一息つけました。
専門的な話になるんで詳しいことは書きませんが、自分がこの歳になっても、まだ上を目指して成長できてる気がして、少し誇らしい気持ちになりました。去年の自分より上位に居ることを確信できるのは、なかなか気持ちのいいものです。
 
いつでも裸一貫で、イチからやっていける。
そんな風に生きるためには、自信が必要だと思います。それは有無を言わせない実力でもいいし、世界で通用する資格でもいい。とにかく、長いことかけて積み上げてきたもの、手に入れたもの、あるいは育(はぐく)んできたものが、その礎(いしずえ)となるのです。
ヒトはひとりでは生きていけないけれど、『ひとりで生きるという覚悟』は大切だと思います。ひとりで生きて行けないことは、お互いを支えあう理由にはなりますが、『誰かに寄りかかってもいいという免罪符』にはなりません。協力と寄生はまったく別のものです。
 
権利には義務、自由には責任、自尊には自制を必要とします。
権利を叫び、自由を重んじ、自尊を旨とするという考え方はすばらしいですが、銃という武器を持って作り上げられたこの社会システムは、権利と義務、自由と責任、自尊と自制、かならず二つセットであることを『構成員が理解している』ことを大前提とします。
対して日本には古来から、恥、名、和という考え方があります。多くの場合、見栄だとか、封建社会の悪しき名残のような解釈の仕方をされがちですが、これは我が国がはぐくんできた、和を基調とする社会システムのひとつでしかありません。
善悪とは別の、ひとつの方法論なのです。
 
和を基調とするか、個を基調とするか。
どちらもそれぞれの利点はありますが、後者には前者にない、自由、権利、自尊という強烈な魅力があります。本来それぞれセットで義務、責任、自制が必要なのですが、日本の場合、自分たちで作った制度ではないために、『セットの片側を理解してない構成員』が多いというのが現状でしょうか。
かく言う俺も、どちらかといえば和を尊ぶ古いタイプの親に育てられました。そこからセットの片側を認識し、理解して、実践するまでにずいぶんと時間がかかりました。まず和を基調に育てられ、次に個を理解し、最近、ようやくそのバランスが取れてきたような気がします。
 
俺は他人にあれこれ言えるような、大層な人間ではありません。よく大口を叩きますが、口の半分ほどもきちんとしてません。放っておけばどんどん自分に甘くなります。ですから他人はどうでも、自分の生き方だけは自分で律したいと思います。
 
まず、ひとりで立つ。
義務と責任を果たし、自制する。
それが出来て初めて、権利と自由、そして自尊を口に出す。
 
過度に卑屈になることも、傲慢になることもなく。
自然に、そして自由に生きてゆきたい。
心からそう思います。