笑ってる?

創作サイト【神々】の日記

モーターデストラクション(3)

 
第一話
第二話
 
 
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 
晩秋の澄み切った青空に、女の悲鳴が響く。
もうずいぶんと走っているのだろう、息をハアハアと荒げながら、女は必死の形相で山道を逃げる。さやさやと傍(かたわ)らを流れる川面のきらめきや、やさしく清涼な空気の中で、その姿は滑稽にさえ見えた。
 
山道の途中でいったん止まり、女はガケの下を覗き込む。
それから意を決した表情で、斜面を転げ落ちるように駆け下り、そのまま開けた川原へ飛び出すと、川の流れに沿って走る。ゴロゴロ転がる石に足をとられることなく、しなやかに、飛ぶように駆ける。
その姿は、まるで獅子に追われる若い女鹿のようだ。
 
と、彼女の駆け下りたあとから、男がふたり現れた。
下卑(げび)た表情やニヤけた口元を見るまでもなく、彼らこそが、女に悲鳴をあげさせた原因だろうとわかる。男たちはゲラゲラと笑い声をあげ、好色そうな顔で「逃ゲロ、逃ゲロ」と女をからかいながら追いかける。
 
川原に慣れていないのか、男たちの足取りはおぼつかない。
が、しかし、曲がり形(なり)にも男の足だ。
少しづつ女との距離が縮まってゆき、やがて。
 
ついに彼らは、女を追いつめた。
 
「そろそろ観念シロ。可愛がってやるカラ」
「ゲハハハ、おめぇに可愛がられタラ、ぶっ壊れちまうゾ」
 
下品な笑いを顔に張り付かせて、男たちが近づいてくる。
女は震えながら、それでも、腰に差した短刀へ手を伸ばした。
短刀の柄(つか)を握りながら、男たちをにらみつける。
 
と、その時。
 
川原に転がった大きな岩のひとつから、声が聞こえてきた。
 
「えーと、この状況は……女の子が襲われてるのかな?」
 
のんびりした声だが、聞いた方は驚かざるを得ない。
男たちも、追われていた女も、みな一様に固まってしまう。
三人が固まったまま、岩を見つめていると、続けて。
 
「それとも悪いのは、女の子の方かい?」
 
と言う言葉とともに、岩の裏側から大きな影がのそりと現れた。
女は瞬間的に、「熊だ!」と叫びかけ、ようやく悲鳴を飲み込む。
それは巨大だが熊ではなく、人間の男の姿だった。
 
6尺(1.8m)をゆうに超え、7尺に迫ろうかと言う長身と、それに見合うだけの肉量。熊と見まちがえるのも仕方ないだろうその大男は、しかし、柔和な表情で答えを待つように小首をかしげている。
どうやら本当に、「どちらが悪いのか」を尋(たず)ねているらしい。
 
「助けてください!」
「なんダ、てめぇハ!?」
「引っ込んデロ、デカブツ!」
 
それぞれの反応で、おおよその見当が付いたのだろう。
大きくうなずきながら、女に向かって優しく微笑むと、男はまさに熊のごとく、のそりと歩を進めた。そして、思わず身構えた暴漢たちへ向かい合うように立つと、まるで世間話でもするような口調で話しかけた。
 
「ここらは怖い人のナワバリだから、見つかる前に逃げた方がいいよ」
「なんダト!」
「てめぇなンカ、怖くねぇゾ!」
 
暴漢たちは、巨体に気押されながらも、大声を上げて虚勢を張る。
すると大男は、きょとんと驚いた表情で彼らを見つめた。
それから、ブンブンと首を横に振ると、あわてて言い募(つの)る。
 
「俺? いやいや、俺じゃないって。ここいらは……」
 
ぶん!
 
鋭く風を切る音とともに、「何か」がこちらへ飛んできた。
女や暴漢たちの背中側から飛んできたため、気づいたのは大男だけだ。
それはゆっくりと回転しながら、ふたりの暴漢のうち、片方の背中へ。
 
どすっ!
 
鈍い音と共に、一瞬、時間が止まる。
 
と。
 
「えア?」
 
暴漢のひとりが、呆けたような表情で、自分の胸を見つめる。
その胸からは湾曲した刃物の先が、数寸ほど、にょきりと生えていた。
しばらくその切っ先を眺め、ようやく事態を理解したのだろう。
 
「アギャァァァァァァァァァ!」
 
男は悲鳴を上げると、白目をむいてその場へ崩れ落ちる。
どくどくと流れ出した血液が、川原の石を赤く染めてゆく。
連れの男と襲われていた女が、ふたり揃ってポカンと呆けている。
 
「あーあ」
 
大男は緊張感のない表情で、首を横に振りながら肩をすくめた。
そこで呪縛が解けたように、ようやく、もうひとりの男が反応する。
 
「クソッ!」
 
仲間に駆け寄ろうとしたその時、しかし、彼の命はすでに終っていた。
 
「エ?」
 
仲間に刺さったものより、ふた周りほど小ぶりの直刀(ナイフ)。
その刃が男の背中、心臓の裏側に、深々と突き刺さっていたのだ。
 
突然の衝撃に、信じられないといった表情を浮かべたまま。
男はもはや亡骸となった仲間の上に、どさりと崩れ落ちた。
折り重なった死体が、流れ出した血でみるみる染まってゆく。
 
そこで初めて女は、倒れた男の後ろに立つ人物を認識した。
彼女にしてみれば、その登場はまるで魔法。
何もなかったはずの空間に、突如わいて出たようにしか思えない。
 
女は口元を抑えて悲鳴を飲み込むと、呆然とその人物を見つめた。
 
 
 
青年、と呼んでいいだろう。
 
両腕をむき出した袖なしの上衣を着て、ぶ厚い布地の筒袴を履いている。
長い髪を後ろでひっつめたその青年は、黙って死体から刃物を抜いていた。
濃い色のついた眼鏡を掛けているため、表情はよくわからない。
 
するとその様子を見ていた大男が、呑気な口調で話しかけた。
 
「わけも聞かず、いきなり殺しちゃうのかい、レップ?」
「見てた。こいつら、蛮夷(ばんい)。こいつらが悪い」
「なるほど、それじゃあしょうがないか……お嬢さん、大丈夫?」
 
ふたりの人間が一瞬にして死んだ。
そのことにも驚いたが、それよりも、殺した当人と大男の様子に、女は、より驚かされた。人を殺したと言うのに、なぜ、この人たちはこんなにも「普通」なのだ。なぜ、「しょうがない」で済ませられるのだ。
言い知れぬ恐怖を感じて、女は思わず後ずさる。
 
その様子を見て大男は、哀しそうな顔で肩をすくめた。一方、レップと呼ばれた色眼鏡の青年は、露骨に顔をしかめた。女の態度が気に入らなかったのだろう、頬を膨らませて何ごとか言おうとする。
と、青年の表情で察した大男が、肩をすくめながら割って入った。
 
「まあまあ、レップ。仕方ないじゃない」
 
青年を制した大男は、女に向かってにっこりと笑う。
 
「怖かったね? でも、もう大丈夫。さあ、気をつけてお帰り」
 
女はガクガクと何度もうなずくと、勢いよく駆け出した。
が、岩場を駆ける途中でいったん足を止め、くるりと振り返ってこちらを向く。それから何かを言おうとして口を開き、怖いのだろう、しばらく逡巡してからようやく、「ありがとう」と小さな声でつぶやいた。
 
大男は微笑み、色眼鏡の青年はむすっとしたままうなずく。
ふたりの反応に、どうやら満足したのだろう。
女は踵(きびす)を返し、今度こそ飛ぶように駆け出した。
 
小さくなる後ろ姿を見つめながら、大男はからかうような口調で。
 
「よかったね、レップ。お礼を言ってくれたじゃない」
「別に。ゴミ掃除、俺の仕事。それだけ」
「ま、そういうことにしておこうか。照れ屋のレップさん」
「俺、名前、レップウ。略すな、フガクさん」
 
そう言って頬を膨らませると、レップウは二本のナイフを仕舞う。
大男はその様子を、優しい笑顔で見つめていた。
ナイフを仕舞ってこちらを向いたレップウは、小首を傾げて問う。
 
「なんで来た? フガクさん」
「なんでって言われても……乗ってきたモノって意味なら……」
 
イタズラっぽく笑って指差した先、川原から少し離れた側道には。
馬鹿げた大きさの鉄馬(うま)が一台、停脚(ていきゃく=スタンド)へ寄りかかって主(あるじ)を待っていた。車高こそ低いものの、前後に長く左右に広いその車体には。
大きさに見合った、巨大な液動(エンジン)が積まれている。
 
「ここに来た理由なら蛮夷さ。西夷(西の蛮夷)が出るって聞いてね」
「出る。何日か前から」
「入り込まれると厄介だからね。早いうちに駆除したほうがいい」
 
笑いを引っ込め、厳しい表情になったフガクに、レップウは小さくうなずいた。
 
 
 
多少の「遺伝子的な違い」こそあれ、蛮夷も同じ人間。
科学的には正しいはずの、そんな言葉はしかし、現在の帝国においては何の意味も持たない。その手の綺麗ごとを口にするには、帝国の人間は「疲れすぎていた」のである。
蛮夷、特に西夷と呼ばれる生き物と対峙し、関わりあうことに。
 
蛮夷は基本的な知能こそ、帝国人と変わらない。
だが、文化があまりにも違いすぎた。
蛮夷の中でも特に西夷が忌み嫌われるのは、生まれや、見た目などのせいではない。欲望のままに生き、自己を律することがまったく出来ないという、西夷たち自身の行動、彼らの「民度」が原因なのである。
 
食い、眠り、繁殖する。
 
彼らは、ただそれだけの生き物だった。
食欲や性欲を満たすためだけに、盗み、奪い、犯し、殺す。
爪や牙の代わりに知能を持った、もっとも恐ろしい野獣。
 
帝国人にとって西夷とは、そういうモノだった。
 
 
 
天から降臨した神々は、大地に線を引いた。
 
その目に見えない、しかし確固たる線は「国境線」と呼ばれた。
線は山脈や川に沿って引かれ、あるいは砂漠のフチに引かれ。
それまで存在した、小さな国々の国境は無視され、線で大きく囲まれた。
 
その線で囲まれた場所を、神々は「帝国」と名づけた。
小さな国々に分かれて生きていた人々の中から、「助けるに値する」と判断した者たちだけを線で囲み、彼らの進んだ文明の恩恵を与え、「帝国人」として優遇した。彼らの与えた技術や知識は、人々を豊かにした。
囲まれた人々は神々を畏(おそ)れ、奉(たてまつ)った。
 
一方、選ばれなかった西夷たちは、選ばれた者に嫉妬する。
神々が選ばなかっただけあって、彼らは文明的とは間違っても言い得ない、まるで野生動物のような生活をしていた。だが、それでも「隣の芝生の青さをねたむ」程度の知能は持ち合わせていた。
彼らは帝国の人々を恨(うら)み、その富を羨(うらや)んだ。
選ばれた帝国人は、選ばれたことを感謝しつつ隣人へ負い目を感じ、選ばれなかった蛮夷は、ねたみ、恨み、憤(いきどお)った。選ばれなかったことを差別だと罵(ののし)り、「選ばれた者たちこそ悪だ」と叫んだ。
 
その態度こそ、神々が線を引いた理由なのだが、彼らには理解できない。
 
帝国の西の国境に住んでいた者たちは、親切な性格であった上に、自分たちだけが選ばれた負い目もあって、「西夷が神に許され、受け入れられるように出来ないだろうか」と考えるようになった。
そこで西夷を「教育しよう」とする動きが発生する。
 
「同じ人間なのだから、いつかは理解しあえる」
そう信じた西の国境の人々は、「文化は生活の余裕から生まれる」と言う考えのもと、西夷の生活を豊かにし、余裕を与えようとした。生活基盤の整備から、福祉、教育、道徳、その他もろもろ。
帝国の人々は、教え、与え、導いた。
 
その結果、西夷は豊かになった。
しかし、その豊かさは、残念ながら「彼ら自身の文化」を生み出すことには、決して繋がらなかった。教えられ与えられた豊かさや便利さは、ただ、彼らの欲望を加速しただけで、文化的な基盤とはならなかった。
 
もっと豊かになりたい。もっと楽をしたい。もっと、もっと、もっと。
 
西夷が口にするのは、それだけだった。
 
 
 
どれだけ教え導いても、西夷には「共同」の精神が根付かない。
しかしそれも、無理のないことではあった。
西夷は、「ずるく立ち回って楽をして利を得る」ことを、「賢い」と考える。そういう者は、「協力」に価値を見出すことができない。そして「協力」がなければ、全体の発展など望むべくもない。
少なくとも、文明社会を営(いとな)んでゆくことは出来ない。
 
西夷の欲は、純粋に個人的なものでしかなかった。
 
欲望とは本来、社会の発展を後押しする動力となり得るモノなのだが、彼らの欲には、「社会のため」と言う空間的な広がりも、「子孫のため」と言う時間的な広がりも、まったくと言っていいほどなかった。
自分だけ楽をしたい、今すぐ得したい、そういう生き方なのだ。
彼らの面倒を見るうち、帝国の人間たちは、そのことに気づく。
 
ようやく人々は、神々が「西夷を帝国から除外した意味」を理解した。
モラルの向上を望めないと知り、西夷に関わるのをやめる。
帝国の人々は倦(う)み、疲れ、諦めたのだ。
 
しかし、その時はすでに手遅れだった。 
 
西夷に残されたのは、膨れ上がった欲望と、帝国人に対する嫉妬。
そして彼らは、その欲望や嫉妬に、忠実に従った。
持っている者から盗み、奪い、犯し、殺す。
 
便利な道具と、より多くの知識を持った「ケダモノ」が生まれた。
 
今から百年ほど前の話である。
 
 
 
「こいつら、西夷かな? こっちの服を着てるけど」
 
フガクの言葉に、レップウがうなずいて、死体の腰あたりを指す。
死体の腰に下がった剣が、帝国のものでは決してありえない粗雑なものだと見て取ったフガクは、納得してため息をつく。違法に越境してきた西夷は殺しても問題にはならないが、手続きが面倒なのだ。
官憲を呼んで手続きが済むまで、まる一日は掛かると見ていい。
 
「こらぁ、面倒なことになったなぁ」
「殺した、まずかったか、フガクさん?」
「いや、捕らえたって、それはそれで面倒だからね」
「そうか、よかった」
 
心配顔だったレップウは、そこでようやく表情を緩めた。
 
言葉の足りない男だが、知能が足りないわけではない。
単に寡黙なのであって、むしろ行動においては優秀な男だ。
過去に何か事件があって、それ以来、言葉少なくなったらしいのだが、詳しい話はフガクも、それ以外の友人も、誰ひとり知らないし、聞こうともしないので、本当のところはわからない。
 
「レップはしゃべらないが、狩りの腕はいい」
 
彼の友人、「山賊」と呼ばれる男たちには、それで充分だった。
 
「それに、女の子を逃がしちゃったからね。あの子が襲われたのが理由で殺したのなら、現場検証に立ち合わせなくちゃならないけど、無断で越境してきた蛮夷を討つだけなら、『あの子は関係ない』で通せる」
 
フガクは巨大な身体を縮めて、覗き込むように友人の顔を見ると、
 
「あの子は巻き込みたくないでしょ、レップ?」
「別に、知らない女だ」
「あはは、そう? でも、巻き込まないで済むなら、その方がいい」
「うん、その方がいい」
 
真面目な顔でうなずいた友人を見て、フガクは楽しそうに笑った。
 
「さて、それじゃあ警邏に連絡しようか。電線はどこだっけ?」
「このへん、ない。里まで行かないと」
「あれ、そうだっけ? そらまた面倒だなぁ。もう、放っておこうか?」
「じゃあ、別のところへ捨てる。ここは川の水、汚れる」
「そうか、この川は上水なんだっけ。う〜む……」
 
無線技術のない外郭世界では、有線電話を「電線」と呼ぶ。
その公衆電話がこの辺りにはなく、里まで降りなければならない。かと言って死体を川に捨てては、腐った死体が水を汚すので、川下の住人が困ると、レップウは言っていた。
それを聞いて、フガクは腕を組んで考え込む。
そうして立っていると、遠目にはちょっとした岩のカタマリのようだ。
 
結局、面倒ごとを避けるために、遺体を隠してしまおうということになる。
皇都なら死体遺棄の重罪だが、外郭世界ではわりとよくある話だ。
彼らは慣れた様子で、遺体を片付け始めた。
 
 
 
死体を引きずっていると、ふいに、レップウが首を伸ばして聞き耳を立てた。
 
「どうしたの、レップ? 何か来る?」
「動輪(どうりん=四輪車)が来る。大将の」
「大将が? へぇ、レップに会いに来たのかな?」
「急いでる。大将、飛ばしてる」
 
ふたりが音のする方を見ていると、やがて、それが姿を現した。
道幅があるとは言え、それなりに険しい山道にも拘(かかわ)らず、バキバキと小枝を折りながら、動輪が猛進して来る。その橙(だいだい)の実の色をした車体は、確かに見慣れた彼らの友人、「大将」のものだ。
 
「ホントだ、えらい急いでる……ああ、そうか!」
「なんだ、フガクさん」
「コレだよ、この死体。西夷が出るって聞いたんだろう」
「そうか。西夷、大将のカタキ。仕方ない」
「ま、そうだけど……荒れてる大将は、ちょっと面倒だねぇ」
「フガクさん、大将を止めろ」
「お、俺がぁ? そら困ったなぁ」
 
呑気に会話してる目の前のに、橙色の角ばった動輪が近づいてきた。
途中で道を大きく逸(そ)れ、ひっくり返りそうになりながら、ガケを駆け下ってくる。ヒステリックな勢いで川原に飛び出した動輪は、小石を跳ね飛ばしながらフガクたちの前で停まった。
ほぼ同時に、大将が動輪から飛び出した。
厳しい形相で近づいて来た彼は、蛮夷の死体を指差し。
 
「それ、西夷だよね?」
「やあ大将、久しぶりだね」
「フガクさん! 答えて!」
「まあ、カリカリしないで。剣を見る限り、西夷だと思うよ」
 
フガクが肩をすくめて答える。
と同時に、大将は2尺(60センチ)ちかい長さの山刀を引き抜いた。
右手がひらめき、陽光がキラっと反射した瞬間。
 
山刀は深々と、死体を田楽刺しに貫いていた。
 
「大将、もう死んでるよ。遺骸を辱(はずかし)めるのはよくない」
 
フガクが眉をひそめて諌(いさ)める。
だが、大将はそんな言葉など聞こえないように、山刀を引き抜き。
改めて、暴漢の死体へ振り下ろした。
 
また、キラキラと陽光が反射する。
 
振り下ろしたのは一度であったにもかかわらず。
ひらめいた山刀の刃は、ふたつの死体の頭部を、正確に切り落とした。
ごろりと転がったその頭部を睨みつけ、大将は近づいてゆく。
 
ついに我慢しきれなくなったフガクが、駆け寄って止めに入った。
 
しかし、フガクの手をするりとかわすと。
大将は崩れた姿勢のまま、脚を大きく後ろへ振り上げる。
そしてそのまま、転がった西夷の頭部を勢いよく蹴り飛ばした。
 
その瞳には、狂気と呼んでいいだろう何かが、棲(す)みついていた。
 
ため息をついて肩をすくめたフガクを意に介さず。
大将は山刀についた血をぬぐうと、元通り鞘に収める。
それから、転がった頭部へ憎しみのこもった視線を向けて、つぶやいた。
 
「ボクが殺したかったな……まあいい、他にもいるんでしょ?」
 
フガクが知らん振りしようとした矢先、レップが答えてしまう。
 
「いる。もう少し上流」
「レップ!」
「そうか、ありがとうレップ。ついでにそこまで案内して」
「…………」
 
フガクの反応に驚いたレップウは、大将への返事を保留して黙り込む。
大将は静かに、しかし狂気をはらんだまなざしで、レップウを見つめる。
仕方ないと肩をすくめたフガクは、憤(いきど)る友人へ話しかけた。
 
「大将、そうやって全部の西夷を殺すつもりかい?」
「……両親の亡骸(なきがら)に誓ったんだ」
「本当の敵(かたき)は判らないのかい?」
「あいつらの顔なんて、区別がつかない」
「だからって皆殺しじゃあ、ヤツラと変らないじゃないか」
 
そう言ったフガクは、ふと、厳しい表情を緩めた。
 
「敵討ちをするなとは言わない。でも、きちんと相手を見定めなきゃダメだ。関係ない連中まで殺すんじゃあ、西夷と同じじゃないか。俺は大将に、そんなケダモノになって欲しくないよ」
「カタキ殺す、あたりまえ。カタキじゃない殺す、ダメ」
 
同じようなことをふたりに言われ、大将は少し気を静めた。
西夷の死体を見て、ふたりの友を見て、それから、天を仰いで大きく息を吸い込む。ゆっくり三つ数えるほど息を止め、「はぁ」と大きな声を上げながら溜めていた息を吐き出し、大将はふたりに向かって頭を下げた。
 
「ごめん、ちょっとアタマに血が昇ってた」
「いや、前よりはずっと、冷静になるのが早かったよ」
「動輪の中で、さんざん喚(わめ)いてたからかも」
「あはは、そうかもね。何にせよ、冷静さを失ったら負けだよ」
 
穏やかなフガクの言葉に、大将は改めて静かにうなずく。
 
もっともそれは、フガクやレップウの心配へ、敬意を示しただけ。
友人のために、激情を押さえこんだに過ぎない。
何か切欠(きっかけ)があれば、たやすく噴き出す休火山である。
 
フガクはそれを理解していたし、大将自身も自覚していた。
 
心配そうに見ていたレップウは、そこでようやく、胸をなでおろした。
ふたりの心の機微はわからなかったが、大将が落ち着いたのはわかる。
今はそれで充分だし、それ以上深いところへ踏み込む気もない。
 
するとフガクが真剣な表情になり、話し始めた。
 
「何でまたヤツラは、急に越境しはじめたんだろう」
「ひとりふたりなら偶然でも、他にもいるみたいですしね」
 
落ち着いた大将が、年上のフガクに対し、言葉遣いを改める。
するとふたりの問いに、レップウが答えた。
 
「上流に、たくさん。追い払った。でも来る」
「防人(さきもり)の連中は、何をしてるんだろう」
「上流、防人、少ない。ヤツラ、穴を掘って隠れる」
「隧道(ずいどう=トンネル)を掘って、やって来るの?」
「違う。国境のこっちがわ。掘って隠れる」
 
レップウの言葉に、フガクが驚愕の声を上げた。
 
「まさか、塹壕(ざんごう)を掘ってるのか?」
「フガクさん、それは? ザンゴーってなんです?」
「戦争……大勢で戦うとき、そうやって溝を掘るんだ」
「なんのためにです?」
「掘った溝に隠れて、そこから銃を撃つんだよ」
「喧嘩するのに、銃を使うんですか?」
「喧嘩なんてもんじゃない。もっともっと大勢で殺しあうんだ」
「そんなことしたら、神々が黙ってないでしょう」
「今はそうだね。でも、昔……神々が降臨なされる前の時代には、そういう殺し合いが日常茶飯事だった……らしいんだ。俺も古文書の研究をしてる友人から聞いた話なんだけど」
 
フガクの表情は暗い。
 
 
 
個人での争いに、神々は口を出さない。
それは警邏(けいら)の仕事であり、帝国に属する各国(地方自治体)の範囲である。単純な喧嘩ならともかく、大きくなりそうな争いは普通、定められた裁判所で、決められた手順にのっとり、解決しなくてはならない。
それが法令だ。
 
神々が出張るのは、「律令(りつりょう)」に関わる場合である。
律令は、個人の殺人や復讐ではなく「大勢での争い」の場合にだけ、人々に関わってくる。大人数で殺し合うなどと言う事件を起こせば、関わった全員がその場で、裁判なしに殺されることも珍しくない。
 
律令は神々の定めた、法令の上に立つ「律」である。
それを犯したものを裁くのに、裁判は要らない。
もっとも、神々自身が人を裁く場合は、いつ何時、誰であっても、最初から裁判など必要ないから、この場合正しくは、「律令を破った場合、人が裁くとしても裁判が要らない」ということになる。
 
また、殺し合いに銃を使うというのも、この世界では異常なことである。
少なくとも、外郭世界に生きる者の常識では、ありえない。銃も弾丸も「超」が付く貴重品であり、しかも所持するためには、厳しい制限と許可が要る。それでも銃を持っているのは、生活に必要だからだ。
喧嘩ごときでそれを失えば、生活が立ち行かなくなる。
 
だいたい、たとえ法で禁じられてないとしても。
貴重な弾丸を人間に使うなど、もったいないではないか。
人間は、銃など使わなくても、簡単に殺せるのだから。
 
大将が驚いたのは、つまり、そういう理由だったのである。
 
 
 
「それで、レップ。ヤツラはまさか銃で攻撃してくるの?」
「違う。弓矢。拾ったり盗んだり。色んな矢」
「なるほど、さすがに大量の銃は手に入らないか。矢ならこっちの撃ったものを拾ったり、死人から奪ったりできる、と。それなりに統率は取れてるんだね。ヤツラにしては珍しいけど」
 
大将が首をかしげると、フガクも納得いかない様子でうなずく。
 
「そこだね、おかしいのは。今までの越境者は多くて数人、たいてい一人か二人だったのに、今回に限って大人数っていうのが解せない。西夷が三人いたら、まとめるのは並大抵の苦労じゃないって言うのに」
「ヤツラの民度がケモノ並みなのは、もちろん知ってますけど」
 
フガクの言葉に大将は、怪訝な顔で首をかしげる
 
「三人いたらまとまらないって、いくらなんでも比喩でしょう?」
「ところが本当なんだよ、大将。ずいぶんと昔の話だけど、俺の爺さんの爺さんあたりが当時、「西夷の教育」に携わってたんだ。その時の記録が残っててね。とにかく我が強くて、集団行動ができないらしい」
「ふん、やっぱりケダモノですね。いや、それ以下か」
 
利益になるなら、親でも子でも売る。
西夷たちに共通する考え方で、それを恥だと思う文化は、彼らには存在しない。彼らにとって、強いもの賢いものが、弱いもの愚かなものをエサにして生き残るのは、弱肉強食と言う自然の摂理であり、当然のことなのだ。
もっとも、その「強さ」や「賢さ」の基準は、帝国と大きく違うのだが。
 
「と言うことはつまり、ヤツラを統率する者がいると?」
「可能性は高いね。それも、おそらくは帝国の人間だ」
「えぇ? あの連中が、死ぬほど嫌ってる帝国人に従いますか?」
「彼らは強い者や利益をくれる者には、簡単に従うよ」
 
フガクは諦観したような顔で答えた。
 
「もちろん、その利益が得られなくなれば、従った時と同じくらい簡単に裏切るけどね。彼らはそれを恥だとは思わないから。だから、もし統率者がいるなら、そいつはきっと強い武力を持っているはずなんだ」
「利益で釣るんじゃなく?」
「それが財なら、殺して奪う。知識なら、教わった段階で同じく殺す。彼らはいつだってそうなんだ。俺の先祖が殺されずに教育活動をしていられたのも、帝国の武力、つまり神々の力がその背景にあったからだよ」
 
ふたりの話に興味がないのだろう。
レップウは暴漢の遺体を片付けてしまうと、ひとりで川原を歩き出した。
先ほど大将が降りてきた、ガケの方へ向かってゆく。
 
フガクに「どこへ行くんだい?」と聞かれ、「馬、取ってくる」と答えた彼は。
まるで猿のように、するするとガケを登り、あっという間に姿を消してしまう。
フガクと大将は、顔を見合わせて苦笑すると、話を続けた。
 
「その統率者である人物が、何らかの理由で彼らを越境させた」
「理由ですか……見当がつきませんね。収穫が終わって、倉庫には越冬のための食料が満載ですから、それを狙うというのなら解るんですが、それにしては、この場所はおかしいですよ」
「食料じゃないだろうね」
 
大将の言葉に、フガクもうなずく。
 
「狙うなら、もう少し南の方が豊かだし。かと言って、機械だのヤツラの役に立ちそうなものは、それこそ俺の地元の方がよっぽど多いから、そっちを狙うはずだ。ココは国境でも特に近い場所だから、何も置いてない」
 
蛮夷を刺激しないよう、国境には食料など彼らの欲しがるものを置かない。
それが国境の付近で生活する人々の基本だ。
天然資源など、どうしても動かせないモノの傍にだけ、防人を配置する。
 
「う〜ん……いや、まてよ。あるじゃないか、大将!」
「ヤツラの欲しがるものがですか? なんです?」
「いや、なんで欲しがってるのかはともかく、重要なものなら確かに、この近くにあるよ。それなら、ここを狙う意味も解る……けど……だとしても、舗装作業なんか出来ないはずの彼らが、なんでまた……」
「え? まさか、瀝青(れきせい)ですか?」
 
驚いた大将に向かって、フガクは深くうなずいた。
 
 
 
瀝青(れきせい)は、黒く粘ついた流動物である。
藻油を精製するときに出るものが一般的だが、天然に湧き出す場合もないわけではない。防水剤や接着剤として用いられることもあるが、砂利と混ぜて道路の舗装をするのが、もっとも多い使い道だ。
皇都では「アスファート」、外郭世界では「黒熱石」と呼ばれる。
 
「でも、ヤツラが瀝青なんて欲しがりますか? 出来あがった製品、結果は欲しがっても、原材料や基礎的な技術には興味を示さない、目先しか見えない連中ですよ?」
「そう、少なくとも今まではね。鉄馬や動輪は欲しがっても、道路の舗装や、それを活用した流通には目もくれない。水道や電気は欲しいくせに、堰堤(えんてい=ダム)や発電所は理解しない。そんな感じだった」
 
それがいきなり、生活の基盤・下部構造(インフラ)に興味を持つ。
本当だとしたら、革命的と言ってもいいほどの、意識改革である。
普通、そういう意識は、長い教育の先に生まれるものだ。
 
「ヤツラには、藻油を精製する技術がない。だから、手っ取り早く道路を舗装するには、天然の瀝青がもっとも効率がいい。それは、ちょっと考えればわかります。だけど舗装作業という<事業>は、ヤツラには出来ない」
 
西夷は協力して事を成すことが出来ない。
だから未だに、西夷の国では未舗装路がほとんどだ。首都周辺はわずかに舗装されているが、それも百年前の「教育事業」の時に作られたもので、現在では補修もされず、荒れるままになっている。
一事が万事、西夷とはそのような調子だった……今までは。
 
難しい顔で腕を組む大将に、フガクも同意してうなずく。
 
「怖い話だよね。何者かが、インフラの重要性を彼らに理解させた。あるいは理解できていないにも関わらず、言うことを聞かせている。俺はおそらく後者だと思うけど……」
 
それから大きく息を吐き出すと、フガクはため息とともに漏らした。
 
「だとしたら統率者は、ものすごく腕のいい動物使いだ」
「ですね。犬猫に芸を仕込むより、あるいは難しいことでしょう」
「まあ、今のところあくまで、俺たちの想像だ。とにかく、まずは上流へ行こう」
「ですね……と、そういえばレップは遅いなぁ」
 
大将がつぶやくと同時に、山の方から排気音が聞こえてきた。
それを聞いたふたりは、顔を見合わせて、怪訝な顔をする。
音が静か過ぎて、レップウの鉄馬の爆音とは似ても似つかないからだ。
 
「あれ? この音ってもしかして……先生の鉄馬じゃない?」
「先生なら、さっきまで、龍神領山でボクと一緒でしたけど?」
「ああ、そうか。大将を追ってきたのか」
「え、ボクを?」
 
キョトントする大将を見て、フガクが苦笑する。
 
「大将を止めに来たんだよ。どうせ西夷と聞いてすっ飛んできたんでしょ?」
「あ、ああ、そうか。悪いことしちゃったなぁ」
「だったらもう、みんなに心配掛けちゃダメだよ」
「あ、はい……」
 
フガクに説教されて縮まってる大将の前に、八の字先生の鉄馬が停まる。
続いてショウキ、イズモと続いてやってきたが、ライデンの姿は見えない。
と、緩衝帽を脱いだ八の字先生が、ふたりを見てほっとため息を漏らす。
 
「フガクさんがいてくれたんですね。だったら、あわててる事なかったなぁ」
「あれ? レップがおらんばい。どげんしたと?」
「と言うか、ライデンもいませんよ。先に行ったはずなのに」
 
三人の好き勝手なセリフに、フガクと大将は笑い出してしまう。
 
「あはは、みんな落ち着きなよ。とりあえず、そのまま鉄馬から下りないで」
「これから、レップの先導で上流へ向かうから、話はその後で」
 
それから大将が、フガクにイズモを紹介する。
ライデンの友人と聞くと、フガクは微笑んでうなずいた。
今は取り込んでいると感じたイズモは、ただ黙って頭を下げる。
 
そこでショウキが、軽いため息をつきながら言った。
 
「ライデンのことやけん、また道に迷っとるね」
「だろうねぇ。まあ、放っといていいでしょ」
 
八の字先生が呆れた口調で言うと、みな一斉にうなずく。
 
ちょうどその時、山の上から爆音が聞こえてきた。
イズモ以外、全員が同時に、ニヤリと笑う。
レップウの鉄馬が、腹の底に響く爆音とともに、川原へ降りてきた。
 
フガクの巨大な鉄馬に負けないほど、いや、それ以上に大きな鉄馬だ。
なのに、本来なら浮いてしまうだろうレップウの細身が、やけになじんでいる。
よっぽど乗り込んでいるのだろうと、イズモは感心してレップウと愛機を見た。
 
当の本人は、いつの間か増えた仲間達を見て、驚きの声を上げる。
 
「あれ? みんないる。なんで?」
「まあ、レップ。話は後にしよう。上流へ案内して」
「わかった……おまえだれ?」
 
突然、レップウに指差されて、イズモが言葉に詰まっていると。
ショウキが笑いながら助けを出す。
 
「ライデンがつれてきたばい。よかね?」
「ライデンが……わかった。いい」
 
シンプルなやりとりに、イズモは目を丸くた。
印象的に、「今は忙しいから後で詳しく聞く」と言うことではなさそうだ。
友人が連れてきたなら、誰だろうと文句はない、そう言うことだろう。
 
そんな山賊連中のやりとりは、イズモをほころばせた。
 
(今日、会ったばかりなのに、なんだろう、この居心地のよさは)
 
衒(てら)いのない、彼らのまっすぐな付き合い方に。
イズモは心からの清々(すがすが)しさを感じていた。
同時に、もっと彼らと親しくなりたいと言う欲求がこみ上げる。
 
「さあ、それじゃあレップ、よろしく頼むよ」
 
フガクがそう声を掛け、レップウを先頭に走り出した。
その後をフガク、八の字先生、イズモ、ショウキの順で続き。
殿(しんがり)に、大将の動輪が続く。
 
彼等の向かう先では、太陽が空を真っ赤に染めていた。
 
 
 
 
下流へ偵察に行った連中が戻ってきまセン」
 
斥候(せっこう:偵察、索敵)部隊の長が、小声で報告した。
釣りあがった目を伏せ、上目づかいに相手を伺(うかが)う表情には、怯(おび)えと阿(おもね)りの色が見て取れる。媚びへつらう彼らの態度には慣れたつもりだったが、それでも不快であることに変りはない。
男はその不快感を隠そうともせず、厳しい口調で問いただす。
 
「戻ってこないのはわかりました。それで、もちろん他の者をやって、様子を見に行かせたんでしょうね? ただ報告するだけなら、子供にでもできますよ。あなたはまさか、そんなに愚かではないでしょう?」
「も、もちろんデス。すぐに行かせまシタ」
 
泳ぐ目を見て「ウソだな」と見抜きつつ、男は黙ってうなずいた。
部隊長は頭を下げると、アイサツもそこそこに飛び出してゆく。
手下(てか)の誰かを、様子見に行かせるためだろう。
 
「ま、結果的に同じならいいでしょう」
 
男は軽いため息をつくと、手に持った杯(さかずき)を掲げる。
待機していた女がすぐに壷を取り上げ、杯を赤紫の液体で満たした。
川の水で充分に冷やされた、葡萄(ぶどう)の果汁である。
 
「その連中もおおかた、任務を忘れて女でも追いかけてるんでしょうね。この連中と来たら、頭蓋骨の中に脳が入っているのかさえ疑わしい限りですよ。あぁ、本当にこいつらの相手をするのは疲れる」
「お疲れでスカ? マッサージいたしまスカ?」
 
果汁の壷を持っていた女が、そう聞いてくるのを制して、男は微笑む。
笑顔を向けられ、女は顔を真っ赤にして、うつむいてしまった。
そうした反応も無理ないほど、彼の顔は美しく整っていた。
 
微笑んだ仮面の下で、男は冷たい思考を走らせる。
 
(計画はおおよそ順調だが、まだまだ手駒が足りない。とは言え、西夷では話にならない。帝国の人間で使えるものを、もう少し増やさないと、これから先がやり辛いな。しかし、皇都へ入り込むのは難しいし……)
 
と、男のいる天幕の入り口がまくり開けられ、風が吹き込んできた。
入り口に立った男は、ニヤニヤと笑いながら近づいてくる。
傍らにいる女の手から壷をひったくると、壷のまま果汁をごくごくと飲む。
 
「なんだこりゃ? 酒じゃねぇのか?」
「私は酒を呑みませんよ。それで何の用です? 私は忙しいんですが」
「まあ、そう邪険にするなって、教祖聖下。いい知らせを持ってきたんだ」
「聖下はやめてください、ジャコウさん。私はただ、唯一絶対神<亜天>を信仰する、一教徒に過ぎないのですから。たまたま預言者に選ばれ、その御言葉を伝える栄誉に浴してはいますけれど」
 
ジャコウと呼ばれた男は、「よく言うぜ」とうすら笑った。
髪を短く刈り込み、中肉中背の鍛えられバランスの取れた身体。そのわりに背中を丸めた悪い姿勢。そして顔には、ふちのない眼鏡。片頬を吊り上げて、バカにしたような薄ら笑いを浮かべるその男は。
かつて皇都で、ガンテツにぶっ飛ばされた、アカネ誘拐犯の一人だった。
(モータードライブ第三話参照)
 
「あんた、帝国育ちの人間が必要だろう?」
「なぜ? 手駒はたくさんいますよ?」
「さすが、涼しい顔で言うねぇ。だが、バカな西夷じゃダメなはずだ」
「…………」
 
教祖と呼ばれた男は、黙って微笑むと、続きを促した。
 
「だが、俺や相棒みたいにIDを剥奪され、皇都を追い出されたヤツなんて、なかなか見つかるもんじゃない。うまくだまして誘い込むたって、皇都は警戒が厳重だから難しい。違うか?」
「面白い話ですね。続けてください」
「なかなか乗ってこねぇな。まあいい。皇都の近くで仕入れてきた情報なんだけどよ。時々ある話なんだが、どうやら最近、貴族が家出したらしいんだよ。しかもそいつ、士家じゃなくて華家らしいぜ?」
「ほう、華家の者がねぇ……それはまた興味深い」
 
ジャコウは、「だろう?」と言ってにやりと笑うと、片手を差し出した。
 
「続き、聞きたくはねぇか?」
「ええ、話してくださるなら」
 
言いながら教祖は、傍らの箱へ手を伸ばし、金塊をつかみ出す。
ゆっくりと取り出したそれを、ジャコウの手のひらの上に載せた。
ジャコウは下卑た笑いを浮かべながら、手を引っ込めようとした。
 
その瞬間。
 
教祖はそのままジャコウの手首を、ガッチリと捕まえた。
驚いたジャコウが強く手を引いた力を利用して、すっと立ち上がる。
立ち上がりざま、相手の目の前に、握った拳(こぶし)を突き出した。
 
ぶん!
 
唸りを上げて飛来した拳は、ジャコウの鼻先でぴたりと止まる。
ジャコウは反応できずに、拳を見つめて固まっている。
教祖はにっこりと笑みを浮かべて、ジャコウの手を離した。
 
とたんにジャコウの全身から、脂汗が噴き出す。
 
「脅かさないでくれ」
 
精一杯の虚勢を張っても、その声は震えていた。
殴られかけたことよりも、それで思い出した記憶が、ジャコウの恐怖を呼び覚ましたのだ。初めてこの教祖と呼ばれる男に会ったとき、完膚なきまでに叩きのめされ、死の寸前まで追いやられた、その苦い記憶が。
 
脂汗をぬぐったジャコウは、教祖の姿を見つめる。
肩にかかるほど伸ばされた黒髪。西の大陸にいそうな、彫りの深い整った顔立ち。体躯こそ、中背のジャコウよりもさらに小さいが、纏(まと)っている雰囲気が禍々(まがまが)しいためか、存在感がとてつもない。
 
「さて、ジャコウさん。話の続きを聞かせてもらえますか?」
 
敗北感と、それ以上に強い恐怖を感じながら。
ジャコウは首をガクガクと縦に振った。
その様子を見て教祖は、穏やかに微笑を浮かべる。
 
フガクや大将が、その存在を予見した、西夷たちの統率者。
 
微笑んで佇(たたず)む、この男こそ、まさにそれだった。
 
 
 
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